【仏縁の衆生】

この世で生き身の如来に直接出会ってその言葉(経)を聞くことができた人々を、仏縁の衆生と言う。 彼らはその気になりさえすれば誰よりも周到に覚りに至る人々である。 なんとなれば、彼らは善知識との邂逅を果たすまでもなく、目の前の如来を善知識と為し得る因縁を持っているからである。

しかしながら、実際には仏縁の衆生が覚ることは難しい。 彼らは、如来という確かな善知識に巡り会いながら如来を善知識として見ることが困難であるからである。 つまり、どうしても如来を如来として見てしまい善知識として見ることが出来ないのである。 それだけでなく、彼らは目の前の如来のすがたにとらわれて如来ではない本来の善知識を探すことが疎かになり、知らず知らずのうちに善知識を遠ざけてしまう愚をおかしてしまう。

これはたとえば伝統芸能の跡取りとして生まれた子供達が、ゆたかな才能に恵まれつつもその道の継承者として大成しないことがあることに似ている。 すなわち、彼らは自分の親を師匠として見ることができず親としてしか見ることができないからである。 彼らは周りの大きな期待に押しつぶされ、自分自身の才能を信じることができずにいる。 また、彼らは友やライバルを持つことができずにいることが多くその道の真髄を会得しようとは夢にも思わない。 彼らは確かに恵まれているが、それが仇となってしまう。

しかし、そうは言っても仏縁の衆生が本来めぐまれた衆生であることには変わりはない。 仏縁にはただ順縁だけがあって逆縁はないからである。 彼らはときとしてこの一なる道を逸れることがあっても、必ず正しい道に戻ってくる。 彼らは、自ら出会った善知識の中にまごうことなき如来の声を見い出して、法(ダルマ)の真実をさとるであろう。 たとえば音楽好きの家庭に育った子供が、本物の歌手が歌う声を聞いてその真贋を知りついに音楽に目覚めるようなものである。 それと同じく、仏縁の衆生こそすみやかに真実のやさしさを知る人となるであろう。

仏縁の衆生は、心して自らの道を歩み行けよ。