【如来とは無関係に覚る】

如来が世に出現したことを聞き知って、如来のもとに馳せ参じるものが覚るのではない。 たとえ如来に100年仕えても、真実を知ろうと熱望しないならば彼が解脱することはあり得ないからである。

そもそも教えの真偽とその混淆はさておき、すでに仏教が広まったこの世において生き身の如来がいようがいまいが人は覚ることができる。 如来が世に存することによって人々が覚り易くなるなどということはなく、如来が世に存しないゆえに人々が覚り難いということもない。 なんとなれば、人は法(ダルマ)によって覚るのであるからである。 それは如来とは何の関係も無いことがらである。 事実、私(SRKWブッダ)も如来に会ったことなどなかった(もちろん布施したり供養したりしたことはない)がこのように覚ることができた。

如来を供養する人には大いなる利益(りやく)がもたらされる。 これはおそらく事実である。 しかしながら、如来を供養することの最上のものは如来に布施することではなく、自ら作仏して自分自身が人々(衆生)に教えを説くことなのである。 もろもろの仏はそれをこそ称讃する。 もちろん、私もそれを称讃する。

こころある人はすみやかに解脱して我が身に法(ダルマ)を体現せよ。 それを為し遂げたとき、諸仏(=法身)と世尊(=如来および善知識)が人々(衆生)に何を望んでいたのかを知ることになるからである。