【如来に問うことと互いに語らうこと】

有り体に言えば、如来に問うたからと言って、そのことによって質問者が覚りに近づくとか覚りに至るとかいうことは別にない。 なぜなら、修行者が如来に何を問おうとも問わずとも、覚りに近づく人は近づくし覚る人は覚るからである。 すなわち、人の覚りの可否・有り無しは眼前の如来とは何の関係もなく起こることがらであるからである。

もちろん、覚りの道について疑問や疑義があってもしも如来が目の前にいるのであるならば如来に問うがよい。 如来は、問われれば必ずその真実の答えを示してくれよう。 そのことについては何の遠慮もいらない。 そもそも如来はすべての人々に対して友の振る舞いを為すものである。 それゆえに、修行者も如来に対しては友の振る舞いを為すべきである。 修行者は、如来に圧倒されてはならない。 親しみを持って接するべきである。

ところで、善き友が集い互いに理法を語り合うことは最高に有益なことである。 それは如来と語らうことよりもすぐれている。 人は、そのようにしてこそ究極に至るからである。 したがって、たとえ如来が目の前を過ぎ、あるいはこの世を去っても、修行者は互いに語らいの場を設けて理法について語らうがよい。 そのような場にこそ諸仏が現れるからである。 ある人々は、そこにかつて聞いた如来の声を思い出して覚るであろう。 またそうでない人々も、人智を超えたその言葉を聞いて真実に目覚めるであろう。

修行者が如来の長寿を願うことは徳篤きことであるが、それよりもなお自分が生きている間に覚りに至ることを願うことの方が徳が大きい。 それは決して我が儘な考えではなく、人のあり得べき究極の願いに他ならないからである。 それを非難する者はいない。 そして、それこそが聖求に他ならない。

円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)を求める人は、こころからの問いを発し、答えを正しく得ることによって世の一切を超越せよ。 そのとき、もろもろの如来が何を言っていたのかが了知されるであろう。