【真実に到達する方法】

・ 人は、真実を知ろうと熱望するゆえについに覚りに到達する。
・ 人は、善知識の発する善知識(=法の句)を聞いて発心し、また解脱する。
・ 人は、世に稀有なる智慧を見い出して世の一切を理解する。
・ 人は、自ら仏になろうとするゆえに仏になる。

これらのことは、皆真実である。 これこそが覚りの全貌である。 これを知った人は、それを我が身に体現したいと思うであろう。 それは全く自然な思いである。 すべての人は、皆そのようであって欲しい。

しかし、ある者はそれをあからさまに達成しようとする。 けれども、あからさまなことによってこれらのことを達成することはできない。 何となれば、すべては思いによって起こるのではなく因縁にもとづいて起こることがらであるからである。

もし人が真実を知ろうと切望するならば、それでは彼が真実を知ることはない。 もし人が善知識の声を聞こうとして聞き耳を立てるならば、それでは善知識に出会うことそれ自体が不可能となる。 もし人が智慧を血眼になって探し出そうとするならば、それでは彼は人智へと陥ってしまう。 もし人が自ら仏になろうと決意するならば、それでは彼は悪魔の軍門に降ることになる。 これらは、灯りを点して漆黒の暗闇を見ようとするような愚かなやり方である。 これらは、音の反響によって無音を突き止めようとするようなやり方である。 このようなやり方では、見たと思ったもの聞こえたと思った音が最初からすでに違うものとなる。

愚かな者は、想いに頼り、眼に頼り、耳に頼り、壮絶な苦行に頼って、物を欲しがるように望みを叶えようとする。 しかし、その望みが叶うことはない。 それは理法に反する行ないだからである。 その一方で、真の求道者はそれらに頼ることなく世の一切への執著を捨て去って、かえって一切を知る人となる。 それは理法に適った行ないであるからである。

明知の人は、灯りに頼ることなく人と世の真相(=すがた)を見る。 聖求の人は、耳に頼ることなく人々の声なき声を聞く。 そのようにしてこそ、人は真実に到達する。 真実は、不意に知り明らめられるものである。 善知識は、ふと耳にするものである。 智慧は、突如として見い出されるものである。 人は、頓悟(=決心ならざる真実の揺るぎなき決心)によって仏となるのである。

それゆえに、すがた(=真実の真相)を見ようとする人は決してあからさまに見てはならない。 見ていることを相手にさとられてはならない。 声なき声を聞こうとする人は、耳をそば立ててはならない。 こころの耳を向けていることを相手にさとられてはならない。 しかし、すがたはよく見なければならない。 声は洩らさず聞き届けなければならない。 そうしなければ、相手を悲しませ、自分もまた悲しむことになるからである。

聡明な人は、よく磨かれた鏡にではなく黒い鏡にこそ世のすがたを余すところなく映してその真相を明らめ衆生を完成させよ。 そのとき、直ちに得られる智慧によって自らの仏国土を浄めることを得て解脱するであろう。 これこそが、人が真実に到達する唯一の道なのである。