【誰がために理法は説かれるのであるか】

もろもろの如来は、問う人があればその問いに答える形でさまざまに理法を説く。 しかし、如来は目の前の人に向かって理法を説いているのではない。 では誰がために如来は理法を説くのであろうか?

そもそも如来の言葉を直接聞いたからと言って、そのことによって解脱する者は一人もいないであろう。 疑惑ある者は当然のこと、理法の言葉をよく信じる人々でさえそうである。 なぜ人々は如来の言葉によって直接に解脱しないのであろうか? それは、人は如来の言葉によってではなく善知識が発する法の句(=善知識)を聞くことによって解脱するのであるからである。 つまり通常の場合、人々にとって生き身の如来の言葉そのものは善知識とはならないからある。

もちろん、如来は人々の問いに対して荒唐無稽のことを語っているのではない。 如来は、問いに対する適切で最高の答えを語るからである。 しかし、それは目の前で如来に問うた人を解脱せしめんと意図して語られるのではない。 如来は、問いに適切に、最高の答えを語ることによってひろがりの意識によってそれを察知するであろう現在の、また未来の数え切れないほどの多くの人々に向かって法(ダルマ)を示そうとするからである。 このとき、ただ如来だけが意識することがある。 それは、

 『法(ダルマ)は正しく誦出された!』

ということである。

すなわち、如来はつねに対機の法を説く。 しかし、それは目の前の人に向かって説かれたのではない。 この対機の法は、目の前にはいない無量の人々に向かって説かれたものである。

それゆえに、如来に問いを発しその答えを得た人は、それが自分に向けてユニークに語られたものであると誤解してはならない。 それはたとえば、記者のインタビューに答える人が決して記者に向かって答えたのではなく、記者の向こうにいる無数の読者・視聴者に向かって広く・公に答えているようなものである。

如来が、ある人の問いに答えて経を誦出したとき、それはその人を通じていわゆる人類の集合的記録庫へと記録される。 それはあらゆる言語に変換可能なものであり、場所によらず時代によらず人々が任意に取り出すことのできるものとなるであろう。 したがって、かれのその問いはかれだけのものではなく、人類共通の財産となるものである。 そして、誦出された経はこのように記録されるものであるゆえに、敢えて文字の形で記録する必要はないものであると知られよう。

このホームページを通じて私(=SRKWブッダ)が語った理法の言葉もそうである。 また、私にメールを出しその答えを個人的に得たそれぞれの返信もそうである。 これらは如来を通して世に誦出された経であり、すでに人類の記録庫に記録済みなのである。 したがって、このホームページそのものにこだわってはならない。 私が出した返信の文そのものにもこだわってはならない。 それらは、その返事を直接受け取った人に向かってユニークに誦出されたものではなく、最初から公の経であるからである。

如来は誰がために理法を説くのであるか? その真実を知った人は、如来が説いた理法にこだわってはならない。 自分だけが何か特別なものを得たとは考えてはならない。 もろもろの如来は、ただ世に平らかに理法を説くのであるからである。