【ものごとを問うということ】

ものごとを問うときには、相応しい人に問うべきである。 相応しくない相手に問うても、埒があかないからである。

また、ものごとを問うときには相手に相応しい問いを発するべきである。 畑違いの問いを発しても、相手は答えようがないからである。

そして、如来に問うときには法について問うべきである。 如来は、理法の言葉しか口にしないからである。

しかしながら、こころからの問いを発するときには一々相手を選ぶ必要はない。 問いの具体的な内容について予め吟味しておく必要はない。 もちろん、相手構わず手当たり次第ということでは究極の答えを得ることはできないであろうが、縁有って目の前に現れた人に向かってこころからの問いを発することはまさに理(ことわり)に適ったことなのである。 それがたとえ初対面の相手に向かってであっても、こころからの問いを発するならば世における最上の答えを得ることも期待されよう。

すなわち、真実の答えを得ることができるかどうかは問うた相手によって決まることではない。 真実の答えを得る人は、自ら発したこころからの問いそのものによってそのよすがを得るからである。

それゆえに、不滅の安らぎを求める人は自らのこころに問うてそのこころからの問いを見い出さなければならないのである。