【覚りについての所感】

異例を承知で覚りについての所感を記す。

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人は生きていればこそ解脱して覚ることができる。 すでに亡くなった人が覚ることはないからである。

人は覚ろうとするからこそ覚ることができる。 覚ろうとしない人が覚ることはあり得ない。

やさしさの追求こそが覚りの道であるとこころに知る人が覚る。 それ以外のことがらによって覚ることができると考える者どもはついに覚ることがない。

他ならぬ自らが仏になれるのであるということを信じる人が覚る。 仏になることなど他人事であると見なすならばそもそも仏や理法の言葉に出会うことがない。

後になって後悔し、あのときこのようにしておけばよかったなどと振り返って考えるようでは覚りの道は遠い。 何があろうとも悔恨することを止め、憂いを去って、行為の是非善悪へのこだわりを離れた人がこの一なる道を見い出すのである。

歓喜するようなことがらを好んで為す人々は、世俗に溺れて激流(=妄執)を渡ることがない。 足下には綺麗なものもそうでないものも混在しているが、彼らはただ意に叶う綺麗なものだけを見てそれが世の真のすがたなのであると誤解しているからである。 しかしだからと言って、世の真のすがたが厭うだけのものであると予め見なしてはならない。

覚りに至る人々は少ない。 しかし、本日只今全人類がひとしく覚りに至ってもおかしくはない。 覚りの因縁は全人類に備わっていることは間違いないことであるからである。

仏に出会ったのに仏に出会ったのであることが分からない人は悲しい。 正法を聞いたのに正法を聞いたのだと理解できない人は悲しい。 彼ら(彼女ら)は、過去・現在・未来の人類すべてを合わせ、延べた覚りに至る列の最後尾に並ぶことになるからである。 それゆえに、軽々に如来に近づいてはならない。 遊び半分で正法を弄んではならない。 後の世で自らの行為の悪しき真相を知って悲しむからである。

私という如来(=SRKWブッダ)がこの世を去っても、人々の覚りの道が無くなることはあり得ない。 それぞれの人々は、それぞれに他の仏に出会って自ら仏になるであろうからである。 しかしながら、私という如来に出会って覚りを目指した人は心しなければならないことがある。 それは、もしも今世で覚ることができなかったら覚ることは他の誰よりも困難になるであろうということである。 しかし、決してそのようになってはならない。 仏縁は順縁だけであって、本来逆縁はないからである。


[補足説明]
釈尊の次の言葉は、まさしくかの如来の覚りについての所感である。

● 愛欲と憂いとの両者を捨て去ること、沈んだ気持ちを除くこと、悔恨をやめること、平静な心がまえと念いの清らかさ、── それは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、── これが無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたくしは説く。(スッタニパータ)

○ 何の笑いがあろうか。 何の歓びがあろうか?──世間は常に燃え立っているのに──。 汝らは暗黒に覆われている。 どうして燈明を求めないのか?(ダンマパダ)