【何一つ無駄なことはない】

何事においても、本質的なことを為さなければ実りを得ることはできない。 それはその通りなのであるが、しかし実際に何かを得ようとして奮励努力する人が予め本質的なこととそうでないこととを見極めて区別することはとてもできないであろう。 それゆえに、人の努力は少なからず無駄のあるものとなる。

ところが、覚りに至るこの一なる道においてはそのようなことはない。 すなわち、人が覚ったとき、それまでに為したあらゆることがらが何一つ無駄ではなかったと知ることになるからである。 逆に言えば、人がこの一なる道を為し遂げて後、過去に為したことがらの一つあるいはいくつかが「あれはまったく意味のないことであった」と思えたとするならば、彼は実はこの一なる道について何も為し遂げてはいないのであると知らねばならない。 為し遂げたというのは彼の思い込みに過ぎない。

すでに覚りに至った覚者は皆つぎのように考える。

 『覚り以前のことがらにおいて、何一つ無駄はなかった』
 『覚り以前のことがらにおいて、あれがもしこうであればもっと早く覚れたに違いないなどとは思わない』
 『覚り以前のことがらにおいて、あれがもしあれでなかったならば覚れなかったに違いないなどとは思わない』
 『覚り以前のことがらにおいて、すべてが違っていたとしても私が覚りに至ることを阻害することは決して無かったであろう』
 『覚りは運命でも宿命でも無く、わずかさえもそれらに該当せず、すべて自らの熱望によって得られたものである』

このように、人の覚りの道におけることがらには何一つ無駄なことはない。 ただ、人によって速い遅いの違いがあるだけである。 早い人は諸仏の言葉を一言耳にして直ちに覚る。 遅い人は、雑多なことをしてついに覚ることがない。 しかし、そのような人でも未来において覚りに至ることは間違いないことである。 こころからやすらぎを求める人が、それを得られないことなど決してあり得ないことであるからである。


[補足説明]
中国の禅の六祖慧能(ブッダ)は、速い遅いの違いについて次のように述べている。

  → 六祖壇教 覚りの素質