【法華経の不思議】

今回も異例であるが私の所感を記す。

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法華経は、ある意味で不思議な経典である。 経典の成立から約2000年が経過し、その間にとくにアジア諸国に広く伝えられ数え切れないほど多くの人々に読誦されたにもかかわらず、これによって覚りに至ったのはおそらく私が初めてであろうと思われるからである。 少なくとも、歴史には法華経によって覚ったと言う人の痕跡が何一つ残っていない。(法華経がまぎれもなく真実の経であることを看破した仏はいる。)

思うに、法華経ほど完成度が高く、読みやすく、理解し易い経典は他に類を見ない。 それにもかかわらず法華経によって覚る人がこれまでいなかったのは全く不思議であると言わねばならない。

法華経には経典としての要素のすべてが揃っている。 正法の記述はもちろんのこと、仏が世に出現する縁起や、仏の本体、覚りに至る人の特徴(菩薩)、近づくべきこと、近づいてはならないこと、覚りに差別なきこと(一乗成仏)、覚りに至る人々に差別なきこと、仏および修行者を守護するものの存在、覚りの障碍の分析、そして仏の智慧をほとんどそのままに記した数多の譬喩である。

これで人々が覚れない筈はない。 しかし現実には覚りに至る人は極めて少数である。 ほとんどすべての人々は、法華経を正しく解することができない。 人々は、どういうわけか法華経を読んでもただ自分勝手な想像を働かせるだけでその真意をさとらないのである。

これを鑑みたとき、私(SRKWブッダ)が説いた理法の言葉もそれを理解して覚りに至る人が現れるのはもしかしたら遠い未来のことなのかも知れないと思う。 このホームページには覚りにまつわるすべてのことがらを記しているが、それでもその真意を知る者は現れないかも知れない。 しかし、理法は説かれなければならない。 なんとなれば、それがすべての如来の決まりであるからである。


[補足説明]
維摩経、勝鬘経も事情は同じである。 これらの経典もすぐれたものであるが、これらによって覚った人はおそらくまだ世に現れていない。 ただ、金剛般若経は例外である。 中国の六祖慧能がこれによって覚っているからである。