【無師独覚】

法(ダルマ)は、口伝できないものである。 それゆえに、法が師から弟子へと伝えられるという考え方は間違いである。

すべての人は、師無くして自ら覚るのである。 それゆえに、如来を師と仰ぐことに特別の意味はない。 如来を師と仰がなくても、覚りの境地へと至るからである。 しかし、如来を師と仰ぐことによってかれ(彼女)の解脱が阻害されるわけではない。 如来を師と仰ぎたければ仰げばよい。

現実には、師と仰げる人を持つ人はしあわせである。 その師が如来であればなおさらである。 如来を師と仰いでいるならば、その人が道を逸れることはあり得ないからである。 また、道を逸れない直ぐなる心の持ち主が、そもそも如来を師と仰ぐのである。 そこには、一種の法脈(=仏縁)が認められるが、しかしそれだからと言ってその弟子がすみやかに解脱するとは考えてはならない。 解脱の因縁は、そのようなものではないからである。

世に稀有なる善知識を師と仰ぎ、その言葉(=善知識)を自らの人生の唯一無二の指標とするならば、かれは解脱する。 それゆえに、もろもろの如来は、人々が善知識に出会うことを願い、また稀有なる善知識の出現を称讃し感興のことばを発するのである。

首記の記述と矛盾するように聞こえるかも知れないが、この意味において人の覚りには師はいらないとするのは間違いである。 人は、正法を師の言葉として道を歩み、出会った善知識が正法そのものの現れであることを知って解脱するのであるからである。 もし人が正法を知らなければ、おそらく解脱は生じることがなく、覚ることはできない。 その意味において、師は確かに必要なのである。

しかしながら、正法が師の言葉そのものであると知った人は、もう師は不要である。 すでに師に問うべきことを問い終わっているからである。 そのような人は、師へのこだわりを捨て去って、自らの道の歩みに邁進せよ。 それこそが、師の望むところであるからである。