【仏道を歩むということ】

知恵の輪は、単にピースが外れたというだけでは解けたとは言われない。 なぜならば、知恵の輪はそれを解いてその知恵の輪が解けたのだという確かな感動を味わってこそ解けたと言えるからである。 それと同じく、人は〈特殊な感動〉を生じ、解脱して、完全な覚りに至らない限りそれまでの修行はつまるところ無駄であったと言わざるを得ないのである。

ところで、歴史を見る限りにおいて、解脱して完全な覚りに達した人(=仏になった人)は極めて少ないようである。 その事実を見て、覚りの道を歩むことはまるで賭け事のように思えるという人があるのも無理からぬことである。

”望めば直ちに解脱が起きる”というのであるならばことは簡単である。 もろもろの如来は、出来ればそうであって欲しいと思う。 しかし、実際には解脱は望めば直ちに起きるようなものではない。

・ 覚りの修行など時間の無駄ではないのか?
・ 得るものよりも失うものの方が大きいのではないか?
・ そもそも解脱はそんなにしてまで求める必要があるような素晴らしいものなのか?

人々は、悲観的に考え、疑惑を生じては二の足を踏む。 このように、実際に仏道を歩むということは決して容易なことではない。

”仏道を歩むことは仮に解脱が起きなくてもこの道を歩んだというだけでそれなりに有意義な人生であったと信じられるものである”と言う者もある。 しかしそのようなことを口にするようでは、かれはまだ悪魔の手中にあって仏道を半歩たりとも歩んではいないと言わねばならない。 かれは、人生を無為に過ごしてくずおれ、泣くことになるであろう。 解脱の道を見い出せなかったことを悲しむのではない。 実際には道を見い出していながら怠り、解脱に至らなかったことを嘆き悔やむのである。 しかし、だからと言ってけしかけられた人が仏道を歩むことはできない。 また、覚りに固執して道を歩むこともできない。 なぜならば、けしかけられて歩む道は外道に他ならず、覚りに固執して見つけた道は正しい道とはならないからである。

ただ志のある人だけがこの一なる道(=仏道)を見い出し、歩んで、ついに真実のやすらぎ(=ニルヴァーナ)に到達する。

解脱しない間は、油断してはならない。 こころある人は、誰に頼ることなく自らの明知によって道を見い出し、怠ることなく、精励によって彼岸へと到達せよ。 たとえ知っていても実行しないならば、それでは目的を達成することはできないからである。