【縁起は常住不変の本質ではない

縁起の中にあって識別作用に翻弄されている人々にとって、縁起はまさしく実在のものであると感じられる。 しかしながら、不生なるものを識る人(つまりすでに苦が縁起せず、苦の源泉たる識別作用を滅ぼすに至った覚者)は、縁起が作られたもの(=生じたもの)に他ならないことを知っている。 そうしてもろもろの覚者は解脱の理法を、すなわち生じたものからの出離を語るのである。

 『作られざるもの(=無為)を観じるならば、作られたもの(=有為)から解脱する』

したがって、縁起を「常住不変の本質」の対義として想定されるものであると考えることは大過ないことである。 なんとなれば、(完全ではないが)この考えに従い、

 『常住不変なるものを求めるのではなく、作られたもの(=有為)からの解脱を願う』

ならばそれはまさしくすぐれた考えであるからである。