【因縁は起承転結とは無関係】

段階の説に浴し起承転結の物語に耽溺している者は、漠然としてではあろうが次のように考えているものである。

 『起承が因縁(仏縁)であり、転が善知識との出会い、そして結が解脱であるに違いない』

つまり、次のように考えているのである。

 『私は仏教に興味を持ち、その勉強をしたり瞑想したり、あるいはまた仏に供養したりしたのであるから、それによって善知識との出会いが準備され、生きている間にいつかは善知識との出会いを果たし、そうして周到に解脱するに違いない』

しかし、そのように考えているようではかれ(彼女)の解脱はおそらく遠いこととなる。 なんとなれば、それはたとえば小説を沢山読んで楽しめればそれによって自分も立派な小説家になれると信じているようなものであるからである。 道を求める人は、いわゆる仏教の勉強をして楽しむことと、自ら仏道を歩むこととは違うことなのであるということを理解しなければならない。

実際には、善知識との出会いはいかなる起承とも無関係に起こることである。 なぜならば、覚りの機縁は起承なる何かが転じたものではないと知られるからである。 また、人の解脱も道の歩みそのものとは無関係である。 人の解脱は因縁にもとづいて起こることであって、起承なるいかなる行為の結びでもないからである。

仏道は微妙なる道の歩みである。 すなわち、そもそも仏道について知ろうと思わなければ善知識との出会いは無く(つまり、善知識との出会いがあってもそれがそうだと理解できず)、まさしくそのようにしてこの一なる道を歩まなければ解脱を生じることもあり得ないことであるからである。

このように、人の発心と解脱はそれぞれの因縁にもとづいて起こるものである。 それゆえに、それらはまるで唐突に起こる。 そこには、いかなる起承なるものも存在してはおらず、道極まって後振り返っても起承なる(および転、そして結なる)何ものも見出すことはできない。 ふと気がつけば、仏道を歩み、道の歩みを堅固ならしめている自分自身を発見するだけである。 そうして、こころある人はついに因縁(=一大事因縁)によって解脱するのである。

やすらぎを求める人は、段階の説を離れ起承転結の物語を捨て去らなければならない。 それを為し遂げたとき、人を悪処へと誘い、人生を無意味なものに堕さしめる世の一切の軛(くびき:真偽、正邪、善悪、多寡、優劣、高低、深浅、虚実などの一組のもの)への執著を離れるのである。 しかし、時々に分別するなと言うのではない。 闇雲に突き進んでも、人は覚りには到達しないからである。 ただ人の明知が、暗闇の中に一筋の光を見い出して得るべきものを得、得るべからざるものを得ることなく、ついに究極の境地(=ニルヴァーナ)へと到達するのである。