【因縁を生じるとき生じないとき】

この世のことがらは、すべからく因縁にもとづいて起こる。 人がよき処に赴くのも、悪しき処へ赴くのも、そしてまったきやすらぎ(=ニルヴァーナ)に赴くこともそうである。

因縁の現れは、まるで唐突に起こる。 それゆえに、そうでないものは因縁とは違うものであると知られることになる。 具体的には、成長(段階の説)と物語(起承転結)などが因縁ならざるものである。

人が段階の説や起承転結に浴し耽溺している間は、覚りの因縁を生じることがない。 彼らは、ただ人生を無為に過ごしているのである。 そして、それをそのように為さしめているものの正体が悪魔とその軍勢なのである。 悪魔とその軍勢は、この世には因縁がまるで無いものであるかのように見せかけている。 悪魔とその軍勢は、人々を歓喜の渦に巻き込み、喜怒哀楽の波間に漂わせているのである。 けだし、そうすることが悪魔とその軍勢が自らの住み場所をつくることであるからである。

人が、次のように思い考えている間は因縁を生じることがない。

 『私はこれだけのことを知っている。 それゆえに、私はさらなることを知ることがであろう』
 『すべて起こったものは、確固たるかたちで(有形無形の財産として)残るのであるな』

 『私はこれだけのことを為した。 それゆえに、私には何か(よいことが)が起こるであろう』
 『すべて起こったものは、なるほどそうかというかたちで帰結するのであるな』

しかし、人が次のように考え思うならば覚りの因縁を生じるであろう。

 『私はたったこれだけのことさえもはっきりと知らない。 それでも、私は真実を知りたいと思う』

それらはまるで唐突に起こることであるが、それがまさしく起きたとき人は発心し、また解脱するのである。 そして人は、この世のことがらが、すべからく因縁にもとづいて起こるものであることを知るのである。