【コミュニケーションそのものによらない】

人は、言葉を機縁として発心し、また言葉を縁として解脱する。 そして、それぞれの言葉はコミュニケーションの場において世に現出・出現するものである。 しかしながら、分かり難いかも知れないが、発心と解脱において本当に必要なことはコミュニケーションをとることではなく知ろうとすることなのである。

なんとなれば、人を発心させる機縁たる善知識はコミュニケーションそのものの中に現れることが無いからである。 また、人を解脱に導く法の句もコミュニケーションそのものの中に現れることはないものである。 ただ、人と世の真実を知ろうと熱望する人が、よく気をつけているならば、何気ないコミュニケーションの中に出現したこの稀有なる言葉を聞くことができるであろう。

ところで、コミュニケーションそのものによって人が発心することが無く、また解脱することも無いのは、そもそもコミュニケーションがつくられたものであるからである。 その一方で、発心および解脱はつくられざるものによって起こることがらである。

こころある人は、コミュニケーションを超えた言葉や文字がもつ世にも不可思議な力を得てこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至れかし。 しかし、だからと言ってコミュニケーションを軽視してはならない。 善き談論は、人を覚りへといざなうものであることは違いないからである。