【異説と物語、そしてそれぞれからの離脱】

有形のものについてであれ、無形のものについてであれ、その他のものについてであれ、

 『私はこれだけのことを知っている。 それゆえに、私はさらなることを知ることがであろう。』

このような考えに馴染んで、その積み重ねによって人はついに解脱するのであると考える者が段階の説に浴している者である。 かれ(彼女)は、自らうち立てた異説にもとづき自他の力を推し量って断じ、世のことがらの真偽、正邪、善悪、多寡、優劣、深浅、段階、虚実を分別・裁量するが、それはやすらぎには役立たず、混迷と紛糺とを増すだけとなる。

有形のものについてであれ、無形のものについてであれ、その他のものについてであれ、

 『すべて起こったものは、なるほどそうかというかたちで帰結するのである。』

このような考えに馴染んで、その本質的には同じことの(つまりワンパターンの)多くのくり返しによって人は成長しついに解脱するのであると考える者が起承転結の物語に耽溺している者である。 かれ(彼女)は、世のすべてのことがらが詰まるところこの一つの考えに集約されると見なすが、それによっては法(ダルマ)を把捉することはできず、さとることがない。 かれ(彼女)は、生きている間に為すべきことを為すことなくただ漫然と過ごして、自の身に老いと死とが迫ってくることに気がつかないのである。


有形のものについてであれ、無形のものについてであれ、その他のものについてであれ、

 『私はたったこれだけのことさえもはっきりと知らない。 それでも、私は真実を知りたいと思う。』

このように考え、ゆっくりと邁進(=精進)しつつ、積み重ねを誇らず、かと言って積み重ねを侮らず、そもそも積み重ねにこだわらず、途中の実りに心が奪われず、途中の実りが無きことを嘆かず、人はついには解脱することができるのであると考える人が段階の説(=異説)を離れ捨て去った人である。 かれ(彼女)は、自他を分別・裁量する不当なる思惟の根本を離れていて混迷に陥ることがない。

有形のものについてであれ、無形のものについてであれ、その他のものについてであれ、

 『すべて起こったものは、消え去る性質のものである。』

このように考え、人生における同じことの単なるくり返しによっては人は決して解脱することがないとこころに知ってそれらに耽溺しない人が、物語にまつわって生じる諸の軛(=分別・裁量のもとのもの)を脱した人である。 かれ(彼女)は、人生は短いと知って気をつけて遍歴する。 そうして、ついに法(ダルマ)の現れを把捉し、為すべきことを為し遂げるのである。

明知の人は、いかようにも自他を分別・裁量せず、人を悲しませない。 賢者は、世の物語に耽溺せず、人と世の真実を見極める。 聡明な人は、まさしくそのようにして究極の境地(=ニルヴァーナ)へと至るのである。