【面白さ】

やすらぎを求める人は、探求心によって邁進すべきである。 しかしながら、これを好奇心に駆られて求める者がある。 彼ら(彼女ら)は、道の歩みを面白さによって進め、結局のところやすらぎとは違う処へと赴くことになる。

面白いことがらが人を迷わしめるのは、それが本質的に誤謬(ごびゅう)をともない、誤謬によって成り立っているからである。 たとえば、次のジョークはそれを端的に示している。

[ジョーク: 面白い話]

A: おもしろい話 何か知ってる?
B: 知ってるよ
A: どんな(ワクワク)
B: 犬の話
A: それって?
B: 言うよ 『白い犬はおもしろい』
A: ...

分からなかった人の見解: 白い犬は面白い
分かった人の見解:     白い犬は(頭も体も)尾も白い


[ジョーク: 星占い]

S: 先生は、星占いを信じていないと公言なさっているそうですが、本当ですか?
T: ああ そのとおりだよ 私は教授だからね 当然だよ あんなものナンセンスだね
S: どういう理由で星占いを信じないとお考えなんでしょうか?
T: 聞きたいかね
S: ええ ぜひ
T: 生徒らによるとだね、私は双子座生まれらしいんだが 『そもそも双子座生まれというのは星占いなど信じないものなんだよ!』
S: ...


このように、面白さはその面白みを生じる基本構造として誤謬をともなっている。 面白さの困ったところは、嘘くさいから面白いのではなく、真面目にありそうなことなので面白いことである。

ところで、もし人が面白さ(つまり好奇心)を判断材料として道を求め、やすらぎの成就を願うならば、それではかれ(彼女)の覚りは遠いこととなるであろう。 なんとなれば、真実の言葉はただ一つのことを語るものであり、誤謬無き言葉によって人から人へと伝えられるものであるからである。 すなわち、道を示し、道の歩みの糧となる真実の言葉は、決して面白いものではないからである。