【以心伝心およびそれを超えたもの】

以心伝心ということは、世にはしばしば見られることである。 その本当のメカニズムを説明することはできないが、人は以心伝心によって他の人の言葉を代弁し代弁させ、また代理して行動しあるいは代理して行動せしめ、しかも互いに行き違うことがない。 以心伝心は、神々のなせるわざである。 神々は、偶然をこえたものの存在を世に示すのである。

また世には、以心伝心を超えたものが存在する。 それは心を超えたこころの邂逅であり、それが起きたときには世に爽やかな風が吹く。 これは、諸天の為すところのものである。 諸天は、善なるもののありようを世に表し、また陀羅尼(ダーラニー:総持)を発する人々を守護しているからである。

そしてこの世には、それらをも超越した不可思議なものが確かに存在している。 それは人智を超え、一切の心の障礙を看過して世に出現する法(ダルマ)であり、因縁によってそれが現れたとき人は解脱し、あるいは発心を起こす。 それにともない、世には真理の香が薫る。 それは、風に逆らってさえ薫るものである。 これこそ諸仏・世尊の面目であり、それは同時にこころある人が抱くあり得べき正しい熱望(=聖求)のそれぞれの一なる帰趨となる。 すなわち、諸仏・世尊はいわば善悪を超えた究極の善なるものの確かな存在と威力とやすらぎとを人の身を借りて世に示現し、(敢えて擬人化して言えば)自らを自らならしめるのである。

ところで、以心伝心は一種面白いものであるが道に通じたものではない。 また、諸天の為すところのものと陀羅尼(ダーラニー:総持)とは、道の歩みを護るものであるが、それ自体は道ではない。 ただ法(ダルマ)にまつわって世に示現されるところのものだけが道であり、人をして円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと導き至らしめるものである。

聡明な人は、それぞれの言葉の意味を知って名称(nama)の束縛から離れ、ことば(名称)の形を借りて世に出現する「それ(法の句)」によってこの名称と形態(nama-rupa)から解脱せよ。