【問うことによって】

世に飛び交う種々さまざまな名称の意味やその起源について問うことは、道の歩みの糧となるものである。 その中でも、諸の如来が説いた理法(ことわり)の意義やその誦出の経緯(=誦出の縁起)について問うことは、まさしく道に適ったことがらである。 そして、ここなる人が真実について問うならば、それこそが世における最上の、一なる道の歩みそのものたる問いなのである。

何をどのように問うても、枝葉末節にこだわって真意を知ろうとしないならば、それでは真実に近づくことは難しい。 その一方で、たとえ問いの形をとっていなくとも、ものごとの本質を知ろうとする人は真実へと近づく。

自分らしい、素朴な問いこそが、解脱の機縁となるものである。 そのような問いに(まるで呼応するかのように)応えて、善き人(=善知識)が法の句を世に現出するからである。 自分らしい、素朴な問いこそが、自他の発心を促すものとなる。 なんとなれば、たとい拙くとも聞き知ったことわりについて語り合い、真実を知ろうとして互いに問いを発する中で、人は思いがけずも発心するのであるからである。

こころある人は、問うことを恥じてはならない。 問うべき人に(ただその問うべき人は予め分かることは無いのであるが...)こころからの問いを発して、以て自らの疑問を解決し、ついにこの究極の境地(=ニルヴァーナ)へと到達せよ。 すべては、問うことによって始まり、問うことによってあり得べき最高の終焉を迎えるからである。