【観を為す人が忘れてはならないこと】

観(=止観)を真剣に行なうことには、一種の恐怖感がともなう。 なんとなれば、観の目的とは

 『本当にやさしいとは何か?』

を突き詰めることに他ならないからである。

したがって、未だ観を完成できていない人にとっては、『あなたはまだ本当のやさしさを理解できていない、こころの冷たい人である!』という事実が突き付けられているのも同然である。 しかしそれは、誰もが認めたくない事実であろう。

観(=止観)の完成者が、なぜ仏になるのであるか? それは、観の完成者とは真実のやさしさを理解した人であり、その真実のやさしさをもって生きて行く人、すなわち仏に他ならないからである。

自分勝手にこれこそ修行であると見なしたものを何と呼ぼうと、また修行と称して何を為そうと、覚りの成就を願って修行する人は『観(=止観)を完成した人だけが仏になる』という真実から言い逃れることができない。 なぜならば、人々は観(=止観)の完成によってのみ仏になれることを実はこころの奥底では知っているからである。

ところで、そもそも観を行わない人や、観を少しだけ行なって結局は諦めてしまう人は不しあわせな人である。 彼ら(彼女ら)がそのままの状況で仏になることは決してあり得ないからである。 しかしその一方で、観を長く行なったにもかかわらず完成させることができなかった人もまた不しあわせな人である。 かれ(彼女)にとっては、観を為すことが重荷になってしまうかも知れない。 諦めたならば、それまでである。

しかしながら、決して忘れてはならないことがある。 観(=止観)の目的は、やさしさの追求に他ならないということをである。 それは、人が生あるあいだに知り究めるべきことのすべてであり、ただ一つのことなのである。 心構え正しき人は、たとえ観という形式をとらなくても自らの観を完成させて仏となる。 それは、誰もが達成出来る筈のことであり、誰もが達成すべきことに他ならない。

やすらぎを求める人は、いわれなき恐怖に打ち勝って観を為し、為し遂げて、この究極の境地(=ニルヴァーナ)へと到達せよ。