【心とすがたと覚りの因縁】

何をどのように考察しても、人は自分が何者であるかを真実に知ることはできない。 しかしながら、人が自らの行為について正しい省察を為すならば、かれ(彼女)はそのとき自分が何者であったかについてその真実を知ることになる。 そして、ついに知った自分の真実のすがたを自分自身が如実に見て、その自分自身が自分自身を超え、ついに心(=名称と形態(nama-rupa))が解脱するのである。

心は最初から最後までとらえどころの無いものであり、それゆえに<心>と名づけられる。 しかしながら、その他ならぬ心が、心によって解脱して、人は覚りの境地へと至るのである。 これこそが、世の中で最も不可思議なことである。 そして、それはそれぞれの人の(覚りの)因縁によって起こることである。

この(覚りの)因縁は、いかなる恣意的な行為の結果としても体現されず、いかなる想起の想いをはせることによっても世に現証せず、いかなる熱意によっても喚起され得ないものである。 この(覚りの)因縁は、やすらぎを求める熱望によってのみ喚起され、心構え正しき人の真実を知ろうとする想いによってのみ世に現証され、能く為し遂げられた徳行の果報として人の身に体現されるものである。

こころある、聡明な人は、世間の感覚的感受にもとづいて起こる虚妄なる想いを捨て去り、思惑を離れ、心によって心を超えて「無住なるそのこころ(=真如)」を生じ、ついにこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至れかし。 それを為し遂げたとき、心や想いやすがたの真実について完全に理解することになるからである。