【我が身の行く末を顧慮して】

たとえば、快の対象物を目の前にして、我が身の行く末を顧慮し、それでもその快の対象物を享受してもよいと思えるならば、その快の対象物を享受することは理法に反しない。 不快な対象物を目の前にして、我が身の行く末を顧慮し、それでもその不快な対象物を排してもよいと思えるならば、その不快な対象物を排することは理法に反しない。 さらに、快の対象物を目の前にしても、不快な対象物を目の前にしても、我が身の行く末を顧慮し、あるいは顧慮せずとも、それでもその快・不快の対象物にこだわることがないならば、それはまさしく理法に適ったことである。

たとえば、善なることがらを目の前にして、我が身の行く末を顧慮し、それでもその善なることがらを享受してもよいと思えるならば、その善なることがらを享受することは理法に反しない。 悪を目の前にして、我が身の行く末を顧慮し、それでもその悪を排してもよいと思えるならば、その悪を排することは理法に反しない。 さらに、善なることがらを目の前にしても、悪を目の前にしても、我が身の行く末を顧慮し、あるいは顧慮せずとも、それでもそれぞれの善悪にこだわることがないならば、それはまさしく理法に適ったことである。

世の一切の軛の一方を目の前にして、我が身の行く末を顧慮し、それでもその世の一切の軛の一方を享受してもよいと思えるならば、その世の一切の軛の一方を享受することは理法に反しない。 世の一切の軛の他方を目の前にして、我が身の行く末を顧慮し、それでもその世の一切の軛の他方を排してもよいと思えるならば、その世の一切の軛の他方を排することは理法に反しない。 さらに、世の一切の軛の一方を目の前にしても、世の一切の軛の他方を目の前にしても、我が身の行く末を顧慮し、あるいは顧慮せずとも、それでもその世の一切の軛の両端にこだわることがないならば、それはまさしく理法に適ったことである。

ところで、我が身の行く末を顧慮するとは、次のことを指す。

・ もし私が明日に死ぬことが決まっているとするならば、それならば私は今はこの行為を為すであろう と考える。
・ もし私が明後日に死ぬことが決まっているとするならば、それならば私は今はこの行為を為すであろう と重ねて考え、今なすべき行為の最良のものを推し量る。
・ もし私が一週間後に死ぬことが決まっているとするならば、それならば私は今はこの行為を為すであろう と重ねて考え、今なすべき行為の最良のものを推し量る。
・ もし私が一ヶ月後に死ぬことが決まっているとするならば、それならば私は今はこの行為を為すであろう と重ねて考え、今なすべき行為の最良のものを推し量る。
・ もし私が1年後に死ぬことが決まっているとするならば、それならば私は今はこの行為を為すであろう と重ねて考え、今なすべき行為の最良のものを推し量る。
・ もし私が10年後に死ぬことが決まっているとするならば、それならば私は今はこの行為を為すであろう と重ねて考え、今なすべき行為の最良のものを推し量る。
・ もし私が数十年後に死ぬことが決まっているとするならば、それならば私は今はこの行為を為すであろう と重ねて考え、今なすべき行為の最良のものを推し量る。
・ もし私がいつ死ぬとしても(つまり明日死ぬとしても数十年後に死ぬとしても)、それでも私は今はこの行為を断乎として為すであろう と考え、今なすべき行為の最善を推し量る。

このように考え顧慮する人は、快・不快を制するに至る。 そして、このように考え顧慮することの究極を見て快・不快の対象物に対するこだわりを超えた人は、ついに快・不快を離貪するのである。

また、このように考え顧慮する人は、善悪を制するに至る。 そして、このように考え顧慮することの究極を見て善悪についてのこだわりを超えた人は、ついに善悪から離貪するのである。

そしてまた、このように考え顧慮する人は、世の一切の軛を制するに至る。 そうして、このように考え顧慮することの究極を見て世の一切の軛についてのこだわりを超えた人は、ついに世の一切の軛から離貪するのである。