【根底の束縛を離れて】

円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至ることを願う人は、まごうことなき理法(の言葉)を聞き、理解を生じたとしても、それを喜びとしてはならない。 なんとなれば、聞き知った理法の言葉がまごうことなき理法の言葉であるとこころに知り(つまり心の深奥に知り)、しかも表面的・意識的には歓喜を生じない人が、理法の言葉を真に理解した人であると認められるからである。 つまり、理法の言葉を聞いてそれを喜びとする人は実は理法を何一つ理解していないのである。

たとえば、知恵の輪を解く過程そのものを喜びとする人は、実は知恵の輪に正しく取り組んではいないと知られるようなものである。 かれはその知恵の輪を分離することが出来たとしても、知恵の輪を解いたという感動を完全には生じないかも知れない。 知恵の輪を解く過程においては、落ち着いた心と注意深さが必要なのであって、喜びや苦しみなどの情感はいわば邪魔なものに他ならない。 この一なる道の歩みも同様である。 そこには歓喜ではなく平静な心構えとよく気をつけていることが必要なのである。

世人は歓喜に束縛されて、世の諸の軛を離れることができない。 世人は、何か特定のことを心に留めることによって、そうとは知らずに自分自身に多くの枷をはめる愚を犯してしまう。

それゆえに、こころある人は理法に親しむべきであるが、しかし理法の言葉そのものに縛られてはならない。 世間において何を見聞きしても、そのそれぞれのことがらを心に留めてはならない。 心に生じた歓喜や悲哀はさらりと流して道の糧とし、つねに新鮮な気持ちで世のことがらに対峙せよ。 明知によって道を見い出し、精励によって自らの歩みを浄めて、この円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達せよ。