【行為の顛末と帰趨】

世人は、自分のことであれ他人のことであれ、ことの顛末と帰趨とを見ては、「ああ これはこのようになるのだな」などと言って楽しみ、悲しみ、またさまざまに想いを馳せる。 しかしながら、それらは、ことがらの本質を見極めたものとは言えず、ただことがらを自分の都合の良いように(妄執して)感受したに過ぎないのである。 したがって、それらは正しい省察に結びつくことがなく、詰まるところ空しい行為とならざるを得ない。

その一方で、行為の顛末と帰趨とを見極める人は、ことがらの顛末と帰趨そのものにこだわることなく、ことがらがどのように為され、それが真実には何であったのかについて(妄執することなく)観察して、そのすがた(=真実のありさま)を知るのである。 そして、たといそれがそのような顛末であろうとなかろうと、またそれがその帰趨に帰着しようがしまいが、自分はその行為を断乎としてそのように為したであろうと正しく考え、根底の決意を堅固ならしめる。 それは、何かに固執して考えたものではなく、ことがらのあり得べき究極の帰趨として最初の行為を認知・認証するということなのであり、しかもそれは自分勝手なものとはならない。 けだし、賢者は、心構え正しく、事前の知識や予めの想いによってそれぞれの刹那の振る舞いを決めたりせず、それぞれの処理は対機であり、心はつねに柔軟であるからである。

歓喜に束縛される者は、行為の真実を見極めることは難しい。 その一方で、すがたを見て、しかもそのすがたに心が動ぜられることのない人が、行為の真実を真如によって見極めて、過ちを犯さないのである。

他の人の行為をいかように吟味しても、それは覚りの参考にはならない。 それどころか、自分の行為さえもそれを(妄執して)感受するならば、やすらぎには役立たないものとなる。 しかしながら、他の人の行為を見て、その行為が為された根底の「それ」を観るならば、それは自らの省察の機縁となり得るものであり、それが自分の行為についての省察ならばなおさらである。

聡明な人は、行為の顛末と帰趨とをまさしく見極めて、自らの省察(=観)を完成せよ。