【自分も解脱できるのか?】

そもそも覚りの境地とは何か? また、どうすれば解脱して覚りの境地に至れるのか?

この二つに次いで人々が知りたい第三のことは、次のことであろう。 それは、個人的な問いである。

 自分も、解脱することができるのか?

釈尊をはじめもろもろの如来は、この個人的な問いに直接的には答えていないが、間接的にはその答えを示している。 それは、次のことである。

 『望むならば、誰でも解脱できると期待され得る』 

これは決して気休めではない。 仏は嘘はつかないからである。 そもそも仏とは、やさしさの究極の相を持つ人である。 それゆえに、仏は言動によっていかなる人をも悲しませない。 したがって、もしもこの世に望んでも解脱できない人がたった一人でもあるならば、仏が広く理法を説くということはあり得ないであろう。 もしそうであるのに敢えて理法を説けば、その覚れない人を悲しませるに違いないからである。 しかしながら、もろもろの如来は広く理法を説く。 それは、この世には、望んでも解脱し得ない人などただの一人もいないことを知っているからに他ならない。

ただし、そうは言っても円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至ることを望まない人が覚りに至ることはない。 覚り(=解脱)は、聖求にもとづいて起こることであるからである。