【どうすれば解脱できるのか?】

 そもそも覚りの境地とは何か? また、どうすれば解脱して覚りの境地に至れるのか?

人々が知りたいことは、この二つの集約されるであろう。 釈尊をはじめもろもろの如来は、これらの問いに答えているが、それは次のように要約される。

・ 覚りの境地とは、苦悩がしずまった円かなやすらぎである。
・ 気をつけることによって、人はついに解脱する。

さて、もろもろの如来は、なぜ覚りの境地がこのようなものであり、解脱がこのようにして起こると語るのであろうか。 それは、もろもろの如来が、覚りの境地がこのようなものであり、解脱がこのようにして起こることを身を以て知っているからである。

ところで、もろもろの如来は、なぜ人々を覚りの境地に至らしめんとして敢えてけしかけないのであろうか。 それは、もろもろの如来が、けしかけられた人が解脱することはあり得ないことであると知っているからである。

もろもろの如来は、「この教義によって人は解脱するであろう」とは言わない。 もろもろの如来は、「これを履修することで解脱に至るであろう」とも言わない。 もろもろの如来は、「この儀式や振る舞いが人を浄めるであろう」とも言わない。 もろもろの如来は、「苦しみ(=苦行)の果てに人は解脱するのである」とは決して言わない。

聡明な人は、気づくであろう。 もろもろの如来が言わないことを行なっても、それによって人が解脱することはあり得ないことであるということをである。 こころある人は、つとめはげめよ。 『気をつけること』によって人がついに解脱するのは、本当のことであるからである。