【寂しく悲しいことがらとその超克】
「当然にあるべきものが何故か無い」 それは、寂しく悲しいことである。
「ある筈のものが無くなっている」 それもまた、寂しく悲しいことである。
「前には確かにあったものが今は無くなっている」 それは、さらに寂しく悲しいことである。
しかし、それらよりももっと寂しく悲しいことがある。 それは、「それ以外のものはあり余るほどあるのに、本当に欲しいものだけがどうしても手に入らないこと」である。
さらに、もっと寂しく悲しいことがある。 それは、「本当に欲しいものが分からないこと」である。
そして、究極の寂しく悲しいことがある。 それは、「本当に欲しいものがすでに与えられているのにそれをそうだと理解できないこと」である。
ところで、それぞれの寂しく悲しいことがらを観によって見極め、ことの真相を領解して、人と世の真実を知り極めるに至ったならば、その人は観の完成者であり、これらの寂しく悲しいことがらを超克するに至る。 かれ(彼女)は、人にこのような寂しく悲しい思いをさせないようにつつしむ人となるのである。 かれ(彼女)は、よく磨かれた鏡のように世間のことがらを自らの心に映し出して身を処すが、しかし外目には光ることのない黒い鏡となって世の人々に決して影響を与えず、ただ孤独の行に励むのである。 かれ(彼女)は、利他に生き、しかしそれゆえに大いなる自利を得ることになる。
こころある人は、まさしくこのようにして自らの観を完成し、ついに一切の苦悩から解脱せよ。
[補足説明]
参考 → 理法【004】 観
→ 理法【004サブ】 方法論