【因果のすがたの超克】

この世には、「これがあったゆえにこのようになったのだろう」としか思わざるを得ないことがらがある。 また、「このようになったのはそれに相応する何かがあったゆえのことであろう」と考えざるを得ないことがらもある。 これらは、総じて<因果のすがた>と名づけられるものである。

因果のすがたにこだわる者は、過ちの有無や、過ちそのものの虚実に迷う。 因果のすがたにこだわる者は、「何とかできる」と慢心して思うか、あるいは「仕方がないことだ」と卑屈になるであろう。 しかし、それらの熱意や諦めによって因果のすがたを超克することはできないのである。

因果のすがたを超克するとは、自分の身体や人生などにまつわるあらゆることがらを気にせず、それらから本質的に離れるということである。 たとえば、赤ん坊が自分の容姿を気にしないようなものである。 あるいは、立派な紳士が自分の幼年時代にこだわらないようなものである。 けだし、赤ん坊は赤ん坊であるというだけで可愛がられ、立派な紳士は立派な紳士というだけで尊敬されるからである。

堪え忍びによって、人はついに因果のすがたを超克する。 誠実さによって、人はついに因果のすがたを超克する。 自制することによって、人はついに因果のすがたを超克する。 慳みしないことによって、人はついに因果のすがたを超克する。 それぞれの徳行は、因果のすがたを超克する基であるからである。

(法(ダルマ)についての)正しい信仰と、正しい道の歩み(=精励)が、因果の軛を打ちひしぐものである。 そのようにして、一切のこだわりを離れたならば、かれ(彼女)は因果のすがたを超克し、世の何ものにも囚われない人となる。

円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至ることを願う人は、何よりも先ず自らの身体や人生にまつわる因果のすがたから心を出離せしめよ。 それがあろうとなかろうと、それがそうであろうとそうでなかろうと、それがそうであることが違っていたとしてもいないとしても、それがそれらのいずれであろうとなかろうと、そもそもそれそのものが実なるものであろうと虚なるものであろうとそれ以外の何であろうとも、それをそのように為す(=正しく行為する)のだという堅固で、しかも柔軟な心を確立せよ。 それによって、真に為すべきことが見いだされると期待され得るからである。


[補足説明]
六祖慧能の六祖壇教から引用

 → 六祖慧能