【疑惑を離れること】

人は、自らの身に体現してこそ、そのことについての疑惑を離れることができるものである。 したがって、それを未だ我が身に体現しないうちは疑惑を離れることは難しい。 しかしながら、分かり難いであろうが、聡明な人はそれを体現する以前においてもそのことについての根底の疑惑を離れ、根底の疑惑を離れたという事実によってそれをまさしく体現する機縁を生じることになる。

疑惑があるうちは、解脱を果たすことはできない。 しかしながら、だからと言って恣意的に疑惑を捨て去ることもできないことである。 なぜならば、それは暗闇を見ようとして灯りを点けるようなやり方であるからである。 そのようなやり方ではたとえ何かが見えたとしても、見えたと思ったものはすでに真実とは違うものである。 ところで、真実に眼が利く人は灯りを点けることなく漆黒の暗闇を見る。 それは、決して哲学的な、観念的なことではなく、感覚的な事実としてまさしく実感されることである。 人が、根底の疑惑を離れる様も同様であり、それは確かな実感を伴って為し遂げられるのである。

人は、世の一切の条件を排し、また形式を超えて疑惑を離れ得る。 これは真理である。 しかしながら、それは闇雲に何かを信じることではない。 それは、他の人の口から語られた(まことしやかな)言葉を耳にして、得体の知れない何かを奉じることでもない。 疑惑を離れる人は、そのようなものに頼ることなく自らに依拠して真実の真相を見極め、ついに根底の疑惑を離れるのである。

自分の心の中に疑惑あることを知ってそれを恥じ、力ずくで疑惑を離れようともがく人は、自分自身を見失っている。 そのような人は、たとえ如来が語る真実の言葉を聞いてもそれを鵜呑みにしてはならない。 なんとなれば、そのような人がそのままにおいて如来の言葉を正しく解することはとても望めないことであるからである。

自分の心の中に疑惑あることを知って、それを恥じることそれ自体は自然なことである。 しかしながら、覚りに向かうこの一なる道においては疑惑のあることそれ自体を恥じるには及ばないのである。 こころある人は、疑惑あることを恥じるのではなく、疑惑を超えることを熱望せよ。 自らのこころに問うて偽りなく、世のことがらの真実を明らめよ。 それを達成したとき、如来が語る真実の言葉を真実のままに知ることを得てさとり、さとり終わって、すでに一切の疑惑が消え失せた自分自身を発見するのである。