【口で言うこととは関係なく】

覚りの道は、見い出そうと思って見いだせるものではない。 しかしながら、道を見い出す人は、自分でも知らないうちにまさしくそれを見い出すのである。

覚りの道は、いかなる決意によっても見いだされ得ない。 しかしながら、道を見い出した人は、正しい決意を胸に秘めた人であることは確かである。

真理を求める想いも、やすらぎへ至ろうとする願いも、振る舞いを正し身を浄めるための戒めも、もしもそこにてらいや疑惑があるならば、それではそれらは役には立たない。 けだし、人は世の一切の想いを超えて真理を体得し、自ら願うことなくしてついにやすらぎを体現し、心の根底に具わった戒めによって自らの道を浄めるのであるからである。

この一なる道の歩みにおいて、決して寡黙である必要は無いが、かれ(彼女)が口であれこれ言うことと、その人が実際に覚りに至ることとは関係がない。 しかしそうは言っても、正しく理法の言葉を口にする人は、大いなる功徳を積むこととなる。

何かに固執して聞く耳を持たず、意固地になっていては、とても道は見いだされ得ない。 善き人々が語る諸々の理法の言葉を耳にしても、それを聞いた人が自分ならざるものに翻弄されているのでは、かれ(彼女)の覚りは遠いこととなるであろう。

それゆえに、こころある、聡明な人は、よく気をつけて世を遍歴せよ。 自他をけしかけ苦しめる愚劣で壮絶な念いを捨て去り、かと言って放逸に耽ることなく、怠惰ならず、清らかな念いと正しい心構えとによって世の煩労を離れ憂いを去って、自らの道の歩みを確かなものとせよ。 それぞれの人の覚りの道はそれぞれに、間違いなく存在しているからである。


[補足説明]
法華経−方便品第二には次の記述があります。

── 諸仏が世に出られる事は、遥かに遠くして遇う事は難しい。たとい世に出られたとしても、この教えを説かれるという事がまた難しい。 無量無数劫を経ても、この教えを聞く事は難しい。 よくこの教えを聴く者達もまた得がたい。 例えばすべての人々が愛し楽しみ、天人や人間の珍重する優曇華(ウドゥン.バラ)の花が、長い間にたった一度だけ咲き出る様なものである。 教えを聞いて歓喜し、一言でもそれを語るなら、それだけで既に一切の三世の仏を供養した事になる。 この様な人が甚だまれであること、優曇華の花以上である。 ──


[補足説明(2)]

 → 慧能(ブッダ)による説明 【智常の参門】