【それぞれの情と堂々巡り】

人が何かを熱望しているとき、かれ(彼女)は時間の無駄を気にすることはない。 かれ(彼女)は、たとえ堂々巡りに陥ったとしても、その堂々巡りの意味や意義や価値の有無を意に介することはない。 そうして、かれ(彼女)は、自ら見いだした正しい道を弛むことなく歩み行きて、ついに究極に到達するのである。 そしてそれは、有情でも非情でも無情でも堕情でもない心のあり方(=想いの理解)によってもたらされることである。 なんとなれば、想いの真実を理解しているかれ(彼女)の正しい熱望が、道々において生じるそれぞれの想いを決して誤らせないからである。

ところで、たとえば知恵の輪を解く場合、それぞれのピース(構成部品)を適宜に押し、引き、曲げ、あるいはひねることによって、ついに知恵の輪は解ける。 もちろん、最初のうちは、それぞれのピースをどのように押し、引き、曲げ、ひねればよいかが分からず、知恵の輪に取り組む人は一種悪戦苦闘に陥ることになるであろう。 しかしながら、人が正しい熱意をもって知恵の輪に取り組むならば、その途中における種々さまざまな悪戦苦闘は決して無駄とはならず、むしろそのような悪戦苦闘があったゆえに知恵の輪が解けたときの感動は確かなものとなるのである。 また、知恵の輪は、解けたときに「知恵の輪が解けた!」という感動を生じてこそ正しく解けたと言えるのであり、取り組みの過程での悪戦苦闘はその正しい感動の必要条件であるとさえ言えるのである。 

それと似て、究極の境地(=ニルヴァーナ)を求める人は、有情でも非情でも無情でも堕情でもない正しい心のあり方を理解しなければならない。 また、有情でも非情でも無情でも堕情でもない正しい心のあり方を理解した人が、ついに究極の境地に到達するのである。 あるいはまた、正しい有情のあり方、正しい非情のあり方、正しい無情のあり方、正しい堕情のあり方を理解した人も、ついに究極の境地に達すると期待され得る。 ただこの場合、正しい有情のあり方は有情そのものでは無いし、正しい非情のあり方は非情そのものでは無いし、正しい無情のあり方は無情そのものでは無いし、正しい堕情のあり方は堕情そのものでは無いだけである。 たとえば、親が我が子を躾ようとして叱るとき、たといそれが子供には怒りに見えようとも、それは怒りとは違うものであるようなものである。 この意味において、正しい有情のあり方、正しい非情のあり方、正しい無情のあり方、正しい堕情のあり方を理解することも究極の境地に至る一つの立場として認められるのである。 それはつまり、叱って子供を躾る立場である。 最初に述べたそれは、いわば褒めて子供を躾る(=導く)立場に他ならない。

知恵の輪が解けたときの押し、引き、曲げ、あるいはひねりが、そのそれぞれの基本的な動き自体は知恵の輪が解けない間の押し、引き、曲げ、あるいはひねりと何ら違いは無いように、すでに覚りの境地に至った覚者の一々の心のあり方それ自体は、衆生のそれぞれの心のあり方と違いは無いものである。 ただ、決定的に違うことは、覚者は正しい心のあり方を確立していて苦悩に陥ることが無いということであり、衆生はそれを未だ確立していないゆえに、情によって自らの心を縛り、煩い、苦悩から解脱しないということなのである。 たとえば、未だ知恵の輪を解いていない人が行なうピースの動かし方(押し、引き、曲げ、あるいはひねり)が、意味のある、決定的な動きをなさないようなものである。 また、未だ知恵の輪を解いていない人はついつい荒々しくピースを動かそうとするが、すでに知恵の輪が解けた人はつねに穏やかにやさしくピースを動かすようなものである。 この意味において、覚者の所作振る舞いは衆生の所作振る舞いと基本的に違いは無いが、しかし決定的な違いが存在することになる。

こころある、聡明な人は、正しい道の歩みの途中における種々の堂々巡りを気にすることなく、覚り以前においても平静な心構えを持ち、ついに究極のやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達せよ。


[補足説明]
中国の禅の六祖-慧能ブッダは、心を護ることについて次のように述べています。

君たち、ある種の男は人を坐らせて、心を見つめ、心の空なるところを見つけよと教え、動かずにじっとしているように努力させている。 自分を見失ったやつは何も知らずに、すぐにそれにとりついて気違いになるのが、数百人もいるありさまだ。 こんな教えは、もちろん大間違いである。  君たち、禅と智慧の関係を何かに譬えるなら、ちょうど灯火とその光明のようなものだ。 灯火があれば光明があり、灯火がなければ、光明はない。 灯火は光明の主体であり、光明は灯火の作用である。 名称は二つあるが、主体は二つあるわけではない。 今いう禅と智慧の教えもやはり同じである。 君たち、禅に頓と漸の区別があるのではなくて、それを行ずる人に利根と鈍根の差があるだけだ。 見失った人には段階的に教えるが、目覚めた人は一挙に修める。 自分の本心を見分けることが、本性に目覚めることに他ならぬ。 目覚めてみると、はじめから差別はないのだが、目覚めぬうちは、永遠に生死をくりかえして果てがない。(六祖壇教[心は清浄である])