【観を完成した立場】

「どうしてもいけない」という立場は、詰まるところものごとを限定する考え方である。 すなわち、こうしちゃいけない ああしちゃいけない これもいけない あれもいけない ということの極限を探し求める姿なのである。 そこには、悲愴なもの、壮絶なもの、苦渋なるものが影のようにつきまとっている。 人は、この立場によってはやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至ることはできない。

「どうしてもいけなければどうするか」という立場は、些細なことを疎かにせず、微細なものを広大に拡張し、さらにその極限の広大なものをも超えた偉大な心のありようである。 この立場に立った人は、両極端にも中間にも汚されない。 かれは、およそ人として考えられ得る最大限の答えを出し、これこそ答えであると確信するが、しかしそのように確信したにもかかわらずその答えはやはりどうしても真実の答えではないのであるとこころに知って、その答えを捨て去るのである。 かれは、人智に安住しない。 そうして、かれはついに人智を超えた「それ(=仏智)」を理解するに至る。 それは、一切のこだわりを離れ捨て去った究極の智(=智慧)である。 それは、真実を探し求める心にもとづいて人の身についに体現される、人のあり得べき究極の立場であり、立場では無い立場である。 そこは、いかなる悲愴なものも存在せず、あらゆる壮絶さを排した世界であり、ただ(究極の)平らかな心があるだけである。 そして、この平らかな心が、最大の苦境をこの世における最も高貴な場に変容せしめるのである。 人は、この(決して立場ではない)立場によってついに妄執を超え、円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至る。

「理に適ったものとして考えられ得るあらゆることが何でも実現可能であるが、それは実は何もできないのも同然である。」 それをまさしくそのように知ったとき、「どうしてもいけなければどうするか」の局面が突きつけられている。 人が、この究極の苦境を打開するならば、かれは「どうしてもいけなければどうするか」の答えを得たのである。 かれは、すでに観(=止観)の完成者である。

こころある、聡明な人は、たゆむことなく観を為し、自らの観を完成せよ。 それが、覚りの直なる機縁となるからである。


[補足説明]
釈尊の原始経典には、次の言葉が見られる。

○ わたくしは、出離の楽しみを得た。 それは凡夫の味わい得ないものである。 それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。 修行僧よ。 汚れが消え失せない限りは、油断するな。(ダンマパダ)

○ <修行僧>が人のいない空家に入って、心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。 かれは、個人存在を構成している諸要素の生起と消滅のことわりを正しく理解するに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとって喜びとなり、また悦楽なるものを、体得するに至る。(ダンマパダ)

○ こころをとどめている人々は努めはげむ。 かれらは住居を楽しまない。 {あたたかい春が来たのに}白鳥が池を立ち去るように、かれはあの家、この家を捨てる。(ダンマパダ)