【夜はこころを護るにふさわしい】

やすらぎを求める人々にとって、夜は貴重な時間である。 夜は、世の種々さまざまな喧騒や束縛から解放される時間であるからである。 たとえすでに出家した修行僧であっても、他の人々が寝静まった夜の時間は、ひろがりの意識にともなって生じる世のざわめきや束縛のよすが(=思い)を隔絶できる時間として貴重なものである。 在家の人々にとってはなおさらである。 この利益(りやく)を知って、もろもろの如来は(修行者が)夜につつしんで目ざめていることを称讃する。

夜は、孤独(ひとりい)にふさわしい時間である。 夜は、こころを護るにふさわしい時間である。

しかしもちろん、円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)を求める人は、昼であれ夜であれ自らのこころを護れかし。 こころを護った人が、ついに解脱して一切の苦悩から解放されるからである。


[補足説明]
中国の禅の六祖-慧能ブッダは、心を護ることについて次のように述べている。

君たち、ある種の男は人を坐らせて、心を見つめ、心の空なるところを見つけよと教え、動かずにじっとしているように努力させている。 自分を見失ったやつは何も知らずに、すぐにそれにとりついて気違いになるのが、数百人もいるありさまだ。 こんな教えは、もちろん大間違いである。  君たち、禅と智慧の関係を何かに譬えるなら、ちょうど灯火とその光明のようなものだ。 灯火があれば光明があり、灯火がなければ、光明はない。 灯火は光明の主体であり、光明は灯火の作用である。 名称は二つあるが、主体は二つあるわけではない。 今いう禅と智慧の教えもやはり同じである。 君たち、禅に頓と漸の区別があるのではなくて、それを行ずる人に利根と鈍根の差があるだけだ。 見失った人には段階的に教えるが、目覚めた人は一挙に修める。 自分の本心を見分けることが、本性に目覚めることに他ならぬ。 目覚めてみると、はじめから差別はないのだが、目覚めぬうちは、永遠に生死をくりかえして果てがない。(六祖壇教[心は清浄である])