【人々の心を左右するもの】

人々は、自ら起こした執著に左右されている。 外なる執著の種が予め存在して(取り憑き)かれを左右しているのではない。

人々は、欲望に左右されている。 欲望の対象物そのものがかれを左右しているのではない。

人々は、特定の何かを愛し好むことによって左右されている。 愛し好む対象そのものがかれを左右しているのではない。

人々は、快・不快と称する感覚がもたらす分別によって左右されている。 快・不快そのものがかれを左右しているのではない。

人々は、感官の接触によって生じた(彼固有の)感覚的感受によって左右されている。 感官そのものがかれを左右しているのではない。

人々は、識別作用によって生じた名称と形態(nama-rupa)の現れに左右されている。 しかし、名称と形態(nama-rupa)とを滅尽し、以て識別作用を終滅せしめたならば苦悩することがない。

人々の心を左右させ苦悩させる根底のものは、心そのものに他ならない。 心が人々を苦悩に縛り付けている。 心が走り廻って人々を右往左往させるのである。 しかしながら、人々は他ならぬその心によって自分自身の心を終滅せしめることができるのである。 それは、法(ダルマ)によって体現されることがらである。 そこには、自分以外のいかなるものも要しない。 如来も善知識もその機縁を与えるものに過ぎない。 如来も善知識も法(ダルマ)の現れには違いないが、法(ダルマ)そのものではないからである。

こころある人は、心を左右するもの、および心の動きそのものにとらわれることなく、その根底のものそのものを自ら根こそぎに摘出せよ。 それは、悪の生じるところから心を制し、よく気をつけて世間を遍歴することによって達成されるであろう。 明知の人は、ことわりをこころに知って、自分ならざる何ものにも依拠してはならない。 他ならぬ自らによって、円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達せよ。