【道中の不安】

人をして覚りの境地に導き至らしめるこの一なる道。 この道には、本来道中の不安は何ら存在していない。 しかしながら、この一なる道の歩みに不安を覚える人々が少なからずあるのはどういうわけであろうか? それは、次のようなことがその要因であると知られるのである。

従属する者は、たじろぐ。 はからう(=うまくやろうとする)者は、おののく。 もし人が、自分ならざる何かに依拠しており、あるいはまた順逆の想いを離れないのであるならば、かれは従属の徒であり、はからう者であると知られる。 かれは、愛執と我執とに心が縛られている。 かれの道の歩みは険しく、その足取りは重い。 そのような人々にとって、道中の不安はまさに現実のものと感じられるであろう。

従属することの無い人は、たじろがない。 はからうことの無い人は、おののかない。 かれは、自分ならざる何ものにも依拠せず、自らに依拠して道を歩んでいるからである。 かれは、人を迷わせる不当なる思惟の根本たる順逆の想いを離れ、心は何ものにも縛られてはいない。 かれは決して平らかではない道を平らかに歩み行く。 かれのその足取りは、つねに軽やかである。 そして、そのような人々にとっては、道中の不安は何ら存在せず、道の歩みは楽しいものと感じられるであろう。

ではどうすれば道中の不安を払拭できるのか? その問いには、次のように答えなければならない。

どのような種類と形式のものであれ、こころある人々が互いに理法について語らうならば、それは少なからぬ福徳と大いなる功徳の糧となる。 それぞれの人の歩む道は違っても、それは皆おそれる必要の無い道である。 なぜならば、真理の追究とは「やさしいとは何か?」について探究することに他ならないからである。 そこにはいかなる危険も存在してはいない。 たとい、その道の歩みが途中で終わったとしても、それは決して無駄とはならない。 その道中にはいかなる不安も存在せず、またつねに安心して歩めるその道こそが正しい道に他ならないのである。 と。

やすらぎの探究は、究極(=覚り)に達する以前においても人の心を安んじるものである。 こころある人は、ことわりを知って疑惑を超え、もともと存在する筈のない道中の不安を払拭せよ。