【信は最上の財】

信こそ世の最上の財である。 人は、信によって激流(=妄執)を超え円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至るからである。

ところで、信の真実とは何であろうか? 人は、いかにして信を確立するのであろうか? 人は、どうして自らの信が正しいものであると知ることができるのであろうか? このことについて、私の知るところを記そう。 これはすべての覚った人が覚知するところのものである。

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人が法(ダルマ)へのあり得べき確かな信を確立したとき、かれ自身、信を確立したという意識が生じることはない。 そのような意識は生じないが、かれは法(ダルマ)への確かな信を確立したのである。 なんとなれば、それによってかれがまさしく解脱するゆえに、つまりその最終的な事実ゆえにそのことが証されることになるからである。 したがって、この法(ダルマ)への信は、解脱以前においてはそれを意識することはできないことであると知られるのである。

また、人は自分ではない他の人に対する根底の疑いを離れたとき、このあり得べき確かな信(信頼すること,不信を除くこと)を確立する。 そして、それもまた意識すること無しに為し遂げられることである。

しかしながら、人は敢えて信じようと意識しない限り、法(ダルマ)への信や他の人への信を確立することはとてもできないことであろう。 なぜならば、それが人というものであるからである。 それゆえに、やすらぎに至る道にまつわるそれぞれの信は日々に意識しつつ次第次第に心に定着すべきことであると知られるのである。

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正しく信じることは、ひとの覚りの種(=財)であり、この世における最上の富である。 しかしながら、この最上の富は、それが最上でありながら最上のものであると意識されないゆえに最上なのである。 なんとなれば、他人がそれを最上の富であると意識しないゆえにこの富を他人が横から奪うことは決してできないからである。(ゆえに最上の富は<最上の富>と名づけられる。)

こころある人は、世俗の信仰ということ無しにこのあり得べき無上の信仰(=信)を確立せよ。 なんとなれば、明知がこの信に結びついてついに無明を破るのであるからである。