【世間の軛を離れて】

円かなやすらぎを目指す人は、他の人とのかかわりにおいては一切の前提条件を離れなければならない。 すなわち、親子、兄弟、親戚、縁者、同胞、友人、師弟、敵、仇、行きずりなどのあらゆる人間関係の絆を断ち切って、世間の軛を離れ、情にまつわって起こる想いを捨て去り、何ものにも執することなく、平らかに人々とつきあうべきである。 また、人と世の真実(=真理)について思索するときにも、思惑を捨て去るべきである。 けだし、一切世間からの出離は、つねにそのようにして為されるからである。

種々さまざまなことを思索・考研することそれ自体が無駄なのではない。 こころある人が、時間の無駄を気にしないで一切の想いと思惑とを離れて思索・考研を行なうならば、それは決して無駄にはならないからである。 かれの明知が、思索・考研すべきこととそうでないこととを能く弁別し、無駄なことを為させない。 人を導く明知は、かれ自身、自己にまつわる不当なる思惟の根本(=我執)を捨て去ったところに現れる。 すなわち、明知は、欲望への執著を離れた心に宿るのである。 それゆえに、明知にもとづいて為される思索・考研は、世の一切の悪をとどめ、人の心を浄める機縁となるのである。 けだし、明知は無住なる心(応無所住而生其心)の発露に他ならない。 明知は、それゆえに<明知>と名づけられる。 そして、明知は一切の前提条件を離れたところから出現するのである。

この世には、<明知の人>と呼ぶべきいとも聡明なる人が確かに存在するが、明知は本来誰にでも現れ出得るものである。 ひとたび明知が現れ出たならば、かれのそれまでのあらゆる行為が有意義なものとなる。 それらがあったればこそ明知が現れたのであると知られるからである。 そのとき、かれのすべての行為の帰趨が、利益(りやく)(=福徳および功徳)に結びつくことになる。

円かなやすらぎを目指す人は、世の一切の前提条件を離れて省察せよ。 そのような人にこそ明らかな明知が現れ、人と世の真実が明らめられるからである。 人は、そのようにして世間の軛を離れて善悪を超越し、人の心を絡め取る情への想いを脱して、想いの根本を滅してついに解脱するのである。 こころある人は、まさにこのようにして、円かなやすらぎに至れかし。