【世の中を見て】

世の中を見て不平等であると認知する人には、怒りと悲しみとがある。 かれは、それゆえに軋轢を生じ、争いの渦中に巻き込まれることとなる。

また、世の中を見て平等であると見なす人には、奢りと怠惰とがある。 かれは、見なしたそれによって確執をもたらし、あらぬ恨みをも買うこととなるであろう。

世の中を不平等であると認知する人にも、世の中を平等であると見なす人にも、拭い難き偏見がある。 かれらは、自己の見解に固執して、人と世の真実のすがたを実は見ていないのである。 かれらは、ひとしく煩悶と苦悩に苛まれることとなる。

しかしながら、ここなる人が聡明であって、があり、世間のありさまを次のように見ることを得たならば、かれは自ら偏見を超え、人と世の真実を見たのである。

 『ありのままに見るのではなく、誤って見るのではなく、見ないのではなく、見て見ぬ振りをするのでもない』

かれの目には、世の中は不平等とか平等とかの一方的立場に立脚して認知されるものとは映らず、その真実の実相が残り無く見えている。 それゆえに、かれは愚かな行為を犯すことがなく、行為する前にはこころ楽しく、行為している最中には心を清浄ならしめ、行為を為しおわってこころによろこばしく、そののちも後悔の念に苛まれることがない。 かれは、自らの心に問うていつわりなく、恥ずべき行為を為さない。 それゆえにかれの行為はつねに安寧に帰すのである。

こころある人は、世の中の何を見聞きしても、そのことについての(一方的)断定を捨て、こだわりを離れて、しかしながらそれらを無視することなく、世の中で起こる行為の顛末と帰趨とを見極め、他の人の行為はさておき、他ならぬ自らの行為を省みて、思いを落ちつけ、人と世の真実を知ろうと熱望すべきである。 それを為すならば、人はついに世の真実のありようを自ら識り明らめて、円かな安らぎに至ると期待され得るからである。

ことわりを聞いて、こころにうなずく明知の人は、自らによって自らの偏見を超えよ。