【相応なこと】

分相応に生きる人は、平安である。 かれには、追い立てられるものが無く、たじろぐこともない。

分不相応に生きる者には、労苦がある。 かれは、つねに駆り立てられていて、おそれとおののきとがつきまとう。

しかしながら、人が分相応に生きようとも、分不相応に生きようとも、そのことそれ自体がかれの覚りを阻害することはあり得ない。 なんとなれば、人が今現在どのように生きていようとも、かれがことに臨んで発心し、ことに臨んで真理を理解するに至ったならば、かれは一切の苦悩から解脱するからである。

そして、すでに平安にあってことに臨む人もあれば、労苦の最中(さなか)にことに臨む人もある。

ここなる人が、世間を分相応に生きていても、かれが分不相応とも思える覚りの境地に至ることを熱望したならば、かれは発心したのであると認められる。

また、ここなる人が、世間を分不相応に生きていても、かれが稀有なるその言葉(=法の句)を聞き及び、こころに理解して、分相応に生きようと決心するならば、かれはただちに解脱する。

それゆえに、こころある人は、世間において種々さまざまに語られる一切の相対的分別を離れ、知り得た何かを絶対視する不当なる思惟の所産(=妄想)を捨て去って、知る人ぞ知る一なる道をこそ自ら見いだし、想いを落ちつけ、疑惑を去って、よく気をつけて遍歴し、円かな安らぎへと至れかし。

そこに至るならば、究極の相応なことが体現されるのである。