【悪をとどめて】

自分がされて厭(イヤ)なことでも、それを他の人に為したとき、その他の人にとっては厭なことではないことはあり得る。

自分がされて厭なことでも、それを他の人に為したとき、その他の人にとってそれはかれの利益(りやく)になることはあり得る。

自分がされて厭なことでも、それを他の人に為したとき、その他の人にとってそれはかれの功徳に結びつくことさえもあり得る。

しかしながら、人が他ならぬ自分が為したことと為さなかったことについて省察したとき、その過失を自ら認め、こころにその非を知ったのであるならば、それを他の人に為してはならぬ。 為さずにおいてはならぬ。

けだし、人が悪を悪だと知ってなおその悪を(積極的にも、消極的にも)為すならば、かれ自身のみならず、かれに関わる人々をも悲しませることになると知られるからである。

それゆえに、こころある人は、たとえ悪について考察するという大義名分があったとしても、自分の快・不快、自分の好悪、自分の善悪判断などにまつわって自己を妄想してはならない。 ただ、自分の為したことと、為さなかったこととを見つめ、省察して、その行為の帰趨を見定め、以て自己を妄想することなくして、人と世の真実を見極めるべきである。 それを為し遂げたとき、人は世間の非難と賞賛とに心を動揺させることは無くなる。

人が安らぎを求めるのであるならば、このように悪をとどめ、善悪を超えて稀有に為されるその行為を(こころに)為し遂げよ。