【どこから出発したとしても】

もし人が、真実を知ろうと熱望して、心構え正しく、人の究極の帰趨を見いだすことを願い、(正しい)<観>を為すのであるならば、かれ(彼女)が、優しさの追求から出発したとしても、認識論から出発したとしても、言語論理的考究から出発したとしても、価値論から出発したとしても、認知論から出発したとしても、意味論から出発したとしても、関係性の論から出発したとしても、善悪・聖俗の論から出発したとしても、不可知論から出発したとしても、その他の世に知られた思惟・考研の用をなすいかなる論から出発したとしても、ついには真理に到達すると期待され得る。 なぜならば、世間において伝承され、あるいは時代時代に想起・流布されて世に飛び交うあらゆる(言語表現可能な)言説および思惟・考研の対象は、それについてその人がこだわらない限り、それが覚りに至ることを阻害することは無いからである。

人がどこから出発しようとも、かれが人のあり得べき帰趨たる不滅のやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至ったならば、かれのその出発点は覚りの境地に至るための確かな出発点であったのだと認められる。 しかしながら、かれのその出発点は唯一・固定のものとは言えず、その出発点の意義はただその人においてのみ認められるに過ぎないものである。 それゆえに、道の歩みの真実を知ってすでに究極に達した人は、自らの求道の出発点を敢えて語らないのである。

やすらぎを求める人は、出発点にこだわってはならない。 聡明な人が、自ら歩むその道についての疑惑を離れ、弛まないならば、ついには人のあり得べき帰趨たる究極の終着点に至るのは間違いないことであるからである。