【高貴さによって】

世に稀有なること(=<大事>)に直接かかわったのであろうと、間接的に見知ったのであろうと、あるいは人づてに聞き知ったのであろうと、人は高貴さによって覚りに向かう機縁(=<発心>)を生じ、また覚りに至る因縁を生じる。

その一方で、人は下劣さによって覚りに向かういかなる機縁も生じることはなく、また覚りに至る因縁を生じることもない。 つまり、いわゆる反面教師ということによって覚りに至る人はただの一人もいないのである。

実に、高貴の人はあらゆる局面において高貴さということを示現する人として振る舞う。 かれは、諸の振る舞いにおいてすべからく濁りがなく、さまたげがない。 かれの行為は、自他の心を安寧に帰せしめる。 かれは、つねに平静である。 かれの周りには、高貴の人が集う。 そしてよく見れば、高貴の人には実は最初から高貴な人々が集っていたのであると知られることになる。

高貴さをたたえた人とは、たとえ自ら一切を捨て、あるいは一切を奪われようとも、捨て得ないもの(奪われ得ないもの)(=<高貴さ>)を身に纏う人のことである。 そうして、高貴さをたたえた人はついにすがたを見て無明を消滅せしめるに至るのである。

それゆえに、やすらぎを求める人は自ら高貴さをたたえる人となって覚りの因縁を生じ、この無上の高み(=ニルヴァーナ)へと至れかし。