【とりえ】

人々(衆生)は、自分ならざるものにつねに突き動かされている存在であり、(自分自身の思惑を含めた)何かにけしかけられていて、それゆえに自分の本性を見失っているのである。 知る人は、それを如実に識って、それをそのように語るのである。 衆生は、それゆえに自らの「とりえ」を知ることは容易ではない。

しかしながら、ここなる人が、世間のさまざまなことに接しても自らの慢心をよく取り除き、勝敗を捨て、怒りを制したのであるならば、かれはすみやかに心を落ち着かせることを得、あるいは心身を爽やかなる安寧に帰すことを得、それぞれの因縁によってついには解脱して、不滅の安穏(=ニルヴァーナ)に至り得るのである。

もし人が、このやすらぎを我が身に体現することを欲するのであるならば、自己をあれこれと妄想することを止め、自分を他の人とひき比べることなく、他の人の行為はいざ知らず、ただ自ら為したことと為さなかったこととを見て、あり得べき正しい省察を為すべきである。 人が、そのようにしてたとえたった一つであろうとも悪を完全にとどめることが出来たならば、かれは当初の望み以上の望みを実現して、まごうことなき覚りの境地に至るからである。

人がそのようにして覚りの境地に至ったならば、それをそのように為し遂げたというそれこそが、実にかれの最上の「とりえ」であったのだと知られるのである。 そして、そのような「とりえ」がすべての人それぞれにひとしく具わっているというそのことが、法(ダルマ)に他ならないのである。

この意味において、人は皆それぞれに、互いに比較する必要の無い素晴らしい「とりえ」があるのだと知られるのである。 その他のとりえは、たとえあったとしても取るに足らないものである。