【善き語らい】

それが真面目なものであろうと、そうでなかろうと、人々が理法について語らうならば、それはひとしく善き語らいである。 またそれが真摯にであろうと、そうでなかろうと、人々が理法について語らうならば、それもまたひとしく善き語らいなのである。 さらにまた、それが研ぎ澄まされた心で為されたものであろうと、そうではない散乱した心で為されたものであろうと、人々が理法について語らうならば、それさえもまたひとしく善き語らいであると知られるのである。 そしてなお、驚くべきことには、それが親しい人との間で交わされたものであろうと、忌むべき敵とおぼしき者との間で交わされたものであろうと、人々が理法について語らうならば、それもまた、ひとしく善き語らいであるのだと認められるのである。

なぜならば、人々が理法について語らうならば、それがどのようなものであろうと、それらはすべて善き語らいであり、その語らいの帰趨はまごうことなき覚りの境地であるからである。

したがって、人々が善き語らいを為したならば、その実際がどのようなものであろうとも、それらはすべて意味も意義もある不毛ならざるものであり、それらはすでにその時点で覚りに至る因縁の結びであると言えるのである。 このように、善き語らいは量り知れないほどの大きな果報をもたらし、それは善き語らいを為した人々だけでなくその語らいの顛末を聞き及んだ人にさえも及ぶ。 それゆえに、もろもろの如来は、理法について語らうことをつねに称讃するのである。

ここに人があって、もしもかれがたったひとりでも善き語らいの相手を見いだしたのであるならば、かれは実にめぐまれた人であると言ってよい。 しかしながら、そのたったひとりの人さえも見いだせない自分自身を発見した人は、少なくとも自らは他の人にとっての善き語らいの相手になるのだと決心すべきである。 それを為し遂げたとき、かれはこの世における最上の利益(りやく)(=覚りに至る功徳)を得て、<しあわせな人>と呼ばれることになるのである。


[補足説明]
法華経には、次の記述があります。

○ ── 諸仏が世に出られる事は、遥かに遠くして遇う事は難しい。 たとい世に出られたとしても、この教えを説かれるという事がまた難しい。 無量無数劫を経ても、この教えを聞く事は難しい。 よくこの教えを聴く者達もまた得がたい。 たとえばすべての人々が愛し楽しみ、天人や人間の珍重する優曇華(ウドゥン.バラ)の花が、長い間にたった一度だけ咲き出る様なものである。 教えを聞いて歓喜し、一言でもそれを語るなら、それだけで既に一切の三世の仏を供養した事になる。 この様な人が甚だまれであること、優曇華の花以上である。 ── (方便品第二)