【見いだされるべき特相】

偏見ある人には、汚いものでも綺麗に見え、醜いものでも美しく感じ、あやしげなものでも真っ当(正統)なものに思え、間違ったやり方でも正しい方法であると認めてしまう。 しかしながら、この世には絶対的に綺麗なものも無ければ、絶対的に美しいものも無く、絶対的に正統なものも無く、絶対的に正しい方法などと主張すべき何ものも存在してはいない。 なんとなれば、人がこの世において知り得るすべてのことのなかで最上であると知られる「それ」の特徴(=特相)とは、<浄らか>ということであるからである。

それゆえに、もし人が、世間の何かに触れてそこに綺麗さを見い出し、美しさを感じ、正統に思え、正しさを認めたとするならば(勿論その逆のことがらにおいても)、それらはかれがそのように誤って見なしたに過ぎないのである。 そして、それらは人をして不滅のやすらぎに至らしめることには役立たないものである。 それらは、人を正しい道に導くことのないものである。 それらは、総じて迷妄と妄執の所産に他ならないからである。

しかしながら、ここに人があって、わき起こる欲望を制し導き、執著を離れ、邪さを捨て去って、偏見を超えたならば、かれは世間のさまざまなものに接しても浄らかなものだけを見ることになるであろう。 かれは、知り難き「人と世の真実」を知ったのである。

それゆえに、聡明な人は世には見いだすべきことと見いだすべきでないことがあるのだと知って、よく気をつけて遍歴せよ。 自らの目によって、見いだされるべき特相をあり得べきままに見たならば、やすらぎを知るものとなるであろう。 同時に、それは本来時を経ずに見い出されることがらであると知るのである。