【疑惑者】

世間の疑惑者のありさまは、次のとおりである。

○ ある人が、いかに信仰篤く、誓戒を多くたもっているとしても、もしもかれが徳行をおろそかにして、疑惑を離れていないのであるならば、少なくともそのままにおいてかれが理法にかなった(正しい)信仰のありようを確立することは無く、それゆえにかれが真理に達することはあり得ない。

○ ある人が、いかに素質に恵まれ、才能豊かであるとしても、もしもかれが心構え正しからず、頑迷であって、聞く耳をもたず、疑惑を離れていないのであるならば、少なくともそのままにおいてかれが人生の究極(=ニルヴァーナ)に達することはあり得ない。

○ ある人が、いかに知ることを欲し、多くの知識を得て、見識豊かであり、また種々の(世に知られた)行法を実践して、(かれにとっては)望ましい結果をさまざまに得たとしても、もしもかれが学識に乏しく、闇雲であって、疑惑を離れていないのであるならば、少なくともそのままにおいてかれが(真の)学識を身につけて不動の境地(=ニルヴァーナ)に達することはあり得ない。

○ ある人が、外的にも内的にも、いかに努力しているとしても、もしもかれが明知を欠き、段階の説に固執し、成果の積み重ねを喜び、疑惑を離れていないのであるならば、少なくともそのままにおいてかれの努力がかれが(こころから)望むとおりに報われることはあり得ない。

○ ある人が、いかに安穏の境地(ニルヴァーナ)を希求し、不断の熱意があるとしても、もしもかれが(根本の)疑惑を離れていないのであるならば、少なくともそのままにおいてかれが安穏の境地(ニルヴァーナ)に至ることはあり得ない。

○ ある人が、いかに従順であって、他の人の言葉を軽んじることなく聞く耳をもち、善いことであると知ったことを確かな善意を以てつねに行為していて、自ら疑惑無きであり、疑惑無きことを自他共に認めているとしても、もしもかれが自らに依拠することを得ず、実際には疑惑を離れていないのであるならば、少なくともそのままにおいてかれのいかなる行為の果報としても覚りの因縁を生じることはあり得ない。

ところで、たとえ人が十のことを心から信じているとしても、たった一つの疑惑が残っているとするならば、かれは疑惑者に過ぎない。

また、ある人が百のことを心から信じているとしても、たった一つの疑惑を拭い去ることができないでいるのであるならば、やはりかれは疑惑者に過ぎない。

さらにある人が、千・万のことを心から信じているとしても、たった一つの疑念がふと心によぎるのであるならば、かれもまた疑惑者に過ぎない。

そして、たとえ人が無限ともおぼしき数知れないことを心から信じているとしても、『疑惑など何一つ無い!』と自らに言い聞かせなければならないのであるならば、かれもまた疑惑者に過ぎず、かれ自身も結局はそれを認めざるを得ないであろう。

しかしながら、ここに人があって、それ以前のことはいざ知らず、かれが自らの疑惑を超えたならば、次のことを知ることになる。

○ 人は疑惑を超えたとき、一切の疑惑を離れたのだと知るのである。
○ 人は疑惑を超えたとき、揺るぎなき信を確立したことを知るのである。
○ 人は疑惑を超えたとき、人生の究極に達したことを知るのである。
○ 人は疑惑を超えたとき、揺るがないこころ(不動心)の真実のありようを知るのである。
○ 人は疑惑を超えたとき、努力の終焉を確かに知って、段階の説の虚実を知るのである。
○ 人は疑惑を超えたとき、解脱して一切の苦悩の終滅を為し遂げ、円かなやすらぎに住している自分自身を発見するのである。
○ 人は疑惑を超えたとき、三種の明知を得て、不可思議なる自らの覚りの因縁を知るのである。

こころある人は、疑惑を去って、疑惑無き無上のやすらぎへと到達せよ。