【恕(じょ)すこと】

人が、他の人と互いに言葉を以て関わるとき、次のことが起こる。

○ すなわち、人は自分よりもすぐれていると思う相手の言葉を恕(じょ)すのであり、また人は、相手と争うことを厭ってその相手の言葉を恕(じょ)すのである。

しかしながら、もし人が、自分よりも(明らかに)劣っていると思われる相手の言葉を恕(じょ)すならば、それは「最上の忍耐」と呼ばれる。 そして、そのような「最上の忍耐」を為す人こそが、ついには因縁を生じて一切の争いから解放されるのである。 それがそのように起きたとき、まさしく法(ダルマ)が世に出現したのであると知られることになる。

ところで、ある人が、たとえ相手と口汚く罵り合うことが無いとしても、もしかれが相手の言葉を恕(じょ)していないのであるならば、かれは忍耐に欠けるところがある人なのである。 かれには、その欠けるところにまつわって起こるさまざまな争い事がつきまとう。

その一方で、ここなる人が、たとえある相手と口論することがあるとしても、たとえばその事後にかれがその口論についての(正しい)省察を為し、為し遂げて、その口論が争闘では無かったと知り、あるいはその口論が後にも争闘へと発展してしまうことはないと確信できたとするならば、かれはその根を(正しく)制したのであり、かれは相手の言葉をよく恕(じょ)したのである。 したがって、かれにはその相手にまつわる争い事が起こることはないのである。 かれが、相手の言葉をよく恕(じょ)したということは、実は自分のためだけでなく、相手のためになることをも同時に行ったことになるのである。

このことわりゆえに、人が為すさまざまな行為の中で、恕(じょ)すことこそが最高の徳行であると知られ、称讃されるのである。