【熱望とその終焉】

人の覚りを推進するもの。 それは熱望である。 なんとなれば、覚りの全貌は次のようなものであるからである。

 『人は、静けさを目指す熱望によって自ら歩むべき仏道を見出すことを得る。 そうして、(第一の)善知識と出会って発心し、〈道の人〉となるのである。 さらに、そのような〈道の人〉が(第二の,=本当の)善知識と出会って彼の発する法の句を聞き及んだとき、そのことばの真実を理解することを得たならば、ただちに解脱して覚りの境地に至ることになる。』

このとき、覚りの境地に至ることを目指す熱望は終焉し、同時にそれは熱望を超えた<諸仏の誓願>へと転換されることになる。 そして、これ以外の道によって人が覚りの境地に至ることはあり得ないことであるとその人は知るのである。

ところで、覚りを目指す熱望が終焉するのはなぜであろうか? それは、その人がこの世で知りたいと心から願うかれにとっての唯一・無二の質問の答えを、善知識が発する法の句という形で得たからであると考えられる。 かれはそのとき、こころから知りたかった答えをまさしく得たのだと認知するからである。 それとともに、それ以外の答えがあり得ないことをも同時に理解するのである。 さらに、かれはその得た一なる答えを指針として今後の人生を歩むことを決意し、それこそが自らに依拠して人生を送ることに他ならないことなのであると知るのである。 そして、すでに為し遂げるべきことを為し遂げた今となっては、もうこの世には知るべき何ものも無いことに気づいて、人が知るべきすべてを知り終えている自分自身を発見することになるのである。

こころある人は、終焉に至るこの熱望をこそ心に抱いて、覚りを目指して精進せよ。 死ぬよりも以前に人と世の真実をさとり、さとり終わって、解脱し、人としてあり得べき真実の熱望を終焉せしめるべきである。

聡明な人は、果てしのない修行は正しい熱望の帰結ではないと知って、心に巣くう邪な熱意(=欲情)を捨て去り、正しい熱望によって静けさを目指す生活を確立せよ。