【言葉の感覚的感受】

人々(衆生)は、聞いて心を楽しませ、聞いて喜びを生じる言葉を耳にすることをつねに欲している。 それゆえに、人々(衆生)は、覚りの境地に至ることについて語られる言説についても、それは心を楽しませ心を喜ばせるようなものであるべきだと考えるのである。

しかしながら、もろもろの如来が人々(衆生)に向けて語る理法や、善知識が世に稀有に発する法の句(=善知識)は、必ずしも人々を楽しませ、喜ばせるものではないものである。 なんとなれば、人を覚りに導く真理の言葉は、聡明で、よく気をつけている、聞く耳をもつ明知の人だけに理解され得る微妙なる言葉であって、それはただ明知の人だけを真実に楽しませ、明知の人だけに真実のよろこびを生じせしめる言葉であるからである。 したがって、真理の言葉は、迷妄の網に心を覆われ、妄執の流れにその身を捉えられた人々(衆生)に理解されることはなく、かれらを楽しませ喜ばせることもない。

ところで、真理の言葉がもつこの特質は、真理の言葉が発せられるそもそもの機縁に起因して生じている。 けだし、真理の言葉は、人々(衆生)を喜ばせるために発せられるのではなく、人々(衆生)を悲しませないことをこころに望んで発せられる言葉であるからである。

したがって、もし人が、言葉を耳にして、その感覚的感受を喜ぶのであるならば、少なくともかれがそのままにおいて真理の言葉を理解することはついにない。 しかしながら、そのような人であっても、善き友と理法について真摯に語らい、ときに崇高なる沈黙を為して、ことわりをこころにさとったならば、かれはついに真理の言葉を理解するであろう。 なんとなれば、かれは言葉についての感覚的感受を喜ばないことの利益(りやく)をさとったのであり、さまざまな言葉の奥に秘められた(それを発した人自身も知らない)心の真実を、深く理解するに違いないからである。 かれは、世に稀有に出現する法の句を聞き及んで、因縁を生じ、まごうことなき覚りの境地に至るであろう。

それゆえに、こころある人は、言葉の感覚的感受を喜んではならない。 世間に飛び交う何に触れても、高ぶることなく平静であれ。 聡明な人は、心を損なうことがないように、よく気をつけて世を遍歴せよ。


[補足説明]
心の真実は<人無我>のことであり、世の真実とは<法無我>のことである。