【修行】

世間には、これこそ人をやすらぎに導くものであると語り、さまざまに伝承され、広く狭く知られた、思惟・考研の対象としてもあれこれと論議されるところの、世人が「修行法」と称する種々さまざまな方法論が存在している。 しかしながら、そのような方法論の何をどのように履修したとしても、それによって人が覚りの境地に至ることはあり得ないことである。 なんとなれば、この世には直接にも間接にも超越的にさえも、人をやすらぎに導く手続き的な修行法などは何一つ存在していないからである。

では、そもそも修行は存在しないのであろうか? 『決してそんなことはない』とすでに覚りの境地に至ったもろもろの如来は説くのである。

けだし、人が覚りの境地に近づき至って円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に住するのは、覚りの境地に至ることを目指す正しい熱望にもとづいてかれ自身が見い出し、為し遂げたところの<修行>ゆえのことであると知られるからである。 そして、そのことは、覚りの境地に至ったかれ自身が、まさしくあれこそが自分にとっての<修行>であったと後づけで知ることになるのである。 したがって、もし人が覚りの境地を目指した<修行>を何も為さないのであるならば、それではかれが覚りの境地に至ることはあり得ないこととなる。

このように、覚りの境地に至ることを目指して行なわれるべき<修行>とは、その具体的なことは、心構え正しきいとも聡明なる人が、誰に頼ることなく自分自身で見い出すものである。 それゆえに、その<修行>はかれにとって疑いを残すことなく修されるところとなる。 また、その<修行>がかれにとって微塵も疑い無きものであるゆえに、それはかれをして修行にまつわって起こるあらゆる疑惑から離れせしめるものとなる。 その結果、<修行>は覚り以前においてもかれに安心と平安とをもたらし、しかもそれは人に何らてらう必要のないものとなるのである。 かれは、決してヌミノース(=まるで熱にうなされたよう)にはならない。 かれのその<修行>は、何かにけしかけられたり駆り立てられたりしたものではなく、また他の誰かをけしかけることもないものであると実感されつつ修されるからである。 かれは、そのようにして<修行>を為し遂げ、ついに自ら因縁を生じて虚妄ならざる不滅のやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至るのである。

ところで、もしも人が「修行法」と称し得るような手続き的な何かによって覚りの境地に至り得るのであるならば、もろもろの如来はそのように説くであろう。 しかしながら、いかなる如来もそのように説くことはない。 なぜならば、そのようなものは存在していないからである。 覚りは、最初から最後まで各自のことがらであり、例外はない。 また、それは時代や場所によらずつねにそのようである。 そのことを如実に知って、もろもろの如来は<修行>にまつわる真実の真相を真実のままに説くのである。

しかし、だからと言ってもろもろの如来は覚りの<修行>は修行者の自己責任であると主張するのではない。 もろもろの如来は、明知ある人は決して道を誤ることがないと予め知ってただ修行者達を見守るのである。 こころある修行者は、見聞きしたものであろうと、自ら想起したものであろうと、何であろうと、あやしげなことに誘われることなくまさしく覚りに至る<修行>に勤しみ、自らそれを為し遂げて円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至るのは間違いない。

実のところ、覚りを目指して行われるべき修行の虚実と正否は、それを行なう修行者の心構え如何によって決まるものである。 心構え正しからざれば、いかなる修行を為すとしても、それは手段を選ばぬものとなってしまうであろう。 しかし、そのようであってはとても覚ることはできない。 その一方で、心構え正しき人は、自ら為すところのあらゆる行為を正しい<修行>として成立させるのである。

したがって、こころある人は「修行」という言葉にとらわれてはならない。 自ら見い出した真実の<修行>を為し遂げて、虚妄ならざる安穏(=ニルヴァーナ)に到達せよ。


[補足説明]
経典には次の記述が見られる。

● まさに住するところなくして、しかも其の心を生ずべし(金剛般若経)
   〔応無所住而生其心〕

● 真実の教え(正法)をしっかりと身につけること自体が、真実の教えである(勝鬘経)